1996 年 11 月 1 日発行
発行 カストリアディス研究会
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『ル・モンド』紙が報じた「カストリアディスとユートピアの精神」
残念ながらカストリアディスは、一九九七年十二月末にこの世を去った。それから三年余りがたつ。彼のあの自律社会の構想は、今どのように社会に受けとられているのだろうか。この三年間を振り返ってみると、彼の声価は改めて高まりつつあり、自律社会への関心も同様である、と思われる。ただそれは、まだ大衆的な運動の中ではなく、さしあたって出版界、学界においてである。
出版からあげるとすると、パリにある大学院大学である社会科学高等研究院での、一九八〇年から一九九五年に及ぶ、彼の講義録の刊行がはじまった。学生たちがとっていた録音をもとに編集されたもので、『プラトンの《政治家》について』(一九九四年、スーユ社)を皮切りに、『人間の創造』という総タイトルの下での一連の刊行が予定されている。
二〇〇一年に入ってすぐ、注目されるものにジェラール・ダヴィッドの『コルネリュウス・カストリアディス、自律の構想』(ミシャン社)の出版がある。『リベラシオン』紙が好意的に紹介したこの書物は、彼の思想を簡潔かつ組織的にとりあげた、入門書としては好適なものである。ダヴィッドが三十九歳という若手の研究者であることは、カストリアディスを継承しようとする新しい世代が育ちつつある事実を示しているのかもしれない。
驚かされるのは、『レ・タン・モデルヌ』誌二〇〇〇年六・七・八月号が、百十頁余をさいて「なぜカストリアディスを読むか」という特集を組んだことである。この雑誌の創刊者であるジャン=ポール・サルトルを、カストリアディスが一九五〇年代から鋭く批判しつづけていたこと、ソ連やスターリン(ついで毛沢東)の擁護者としてほとんど罵倒、嘲弄していたことを思えば、時代の流れの変化に感慨を覚えざるをえない。
一方、マドリードの政治・文芸誌『アルチピェラゴ』も、現在カストリアディスの特集を準備中であると聞く。
学界についていえば、二〇〇〇年にはカストリアディスについてのシンポジウムが相次いだ。まずギリシアのクレタ島での、九月二十六日から三十日までの三日間に及ぶ、クレタ大学主催のもの。ついで十二月一日から三日までの三日間にわたる、ニューヨークのコロンビア大学フランス館でのもの。
特にこの後者は、何人かの著作家、精神分析家、編集者をのぞくと、アメリカ、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、アルゼンチンの、二十六の大学ないし研究機関の研究者を集めた、盛大な討論の場となった。このシンポジウムについては、『ル・モンド』紙(二〇〇〇年十二月十二日号)が、「カストリアディスとユートピアの精神」と題する報告をのせているので、今日カストリアディスの思想とその自律社会の構想がどのように迎えられているのか、の一端を示すものとして、その全文をここに訳出しておきたい。
「十の分科会、五十人の発言者、討論の三日間、三百人の聴衆。ステファン・バーク、アンドレアス・カリヴァス、フェルナンド・ウリドリによって計画され、この十二月初めにコロンビア大学(ニューヨーク)のフランス館が、一九九七年十二月二十六日の彼の死から三年をへて、コルネリュウス・カストリアディスに捧げたシンポジウムは、人がこの哲学者に表明することのできた、おそらくもっとも美しい敬意であった。カストリアディスの大著『想念が社会を創る』は、二十年前にスーユ社から刊行された。したがってフランスの偉大な著作がその真価を認められたのは、またしてもアメリカを経由してのことだった。それに驚くには当たるまい。フランスでは、(クロード・ルフォールとともに、一九六七年に解散した「社会主義か野蛮か」運動の創出者である)カストリアディスの思想は、まだしばしば流行遅れの「左翼急進主義」の一変種と見られている。それに反してアメリカでは、デーヴィッド・エイムズ・カーチスというすぐれた訳者の存在に恵まれて、彼の思想は単に「急進的な」知識人たちのみならず、もっと広い形で多くの社会科学研究者の関心を集めているのである。
隅から隅まで政治的な、彼の思想の重要性は、第一に明晰さと結びついていることである。その明晰さをもって彼の思想性は、マルクス主義を拒絶している(アグネス・ヘラー)。討論を要約してみよう。マルクスにとっては、──それ自身が技術の無限の進歩によってもたらされる──生産力の発展が、与えられた生産様式の中で不変の、生産諸関係の構造と矛盾せざるをえない。そこからマルクスの三つの確信が由来している。資本主義の核心にある矛盾はついに「手に負えない」ものになる。資本主義は革命によって廃止されるだろう。革命が生ずるのはプロレタリアートの存在によってである。幻想の確信だ、とカストリアディスは指摘する。というのも、マルクスの死後も、資本主義は発展することを、止めなかったからである。したがって革命は、いささかも不可避のものではない。さらに悪いことがある。革命が起きたまさにその場所で、革命は失敗した。なぜなら、革命が国家資本主義をしか生まなかったからであり、そこでは官僚階級がかつてのブルジョアジーの地位を占めている。この(一九四〇年代の終わりから概略を示しはじめた)分析は、しかしながらカストリアディスが「革命家」を、さらには「社会主義者」を名乗ることを、さまたげるものではなかった。ただ彼にとっては、「マルクス主義」と「革命」とがもはや両立しえないことが、明白だったのである。彼は、ディック・ハワードがのべたように、「反全体主義者な」左翼(「左翼の左翼」とさえ)呼びうるであろう傾向の、典型的な代表者なのである(「左翼の左翼」という表現がフランスで、まだマルクス化している一派を連想させないとすれば、だが)。
では、いま、ここで「革命家」であるとは、どういうことなおだろう。答えは、われわれの生きている主要な「支柱」の根底的な転換なしには、うまくいかないし、改善もなしえない、あまりにも多くの事柄があるのを、確認することである。具体的には、われわれに必要なのは、生産の組織が生産者自身にゆだねられる体制であり、それによって官僚階級を排除するとともに、社会生活の他のあらゆる領域にただちに影響を及ぼす、大変革である。その意味で問題なのは、経済的自己管理へのアッピールであり、この自己管理はそれ自身、より大きな個人的自律の要求に役立つものである。
定義するのがむつかしい観念、カストリアディスによる自律は、──フランシスコ・ヴァルラ、ジャン=ピエール・デュピュイが強調するように──(実現し得ない)自足とも、(カント的な意味での)普遍法の理性による発見とも、何の関係もない。それはむしろ「自由の深淵への徹底した潜航」(エドガール・モラン)である。譲歩することのない無神論者、アテネ型直接民主制の熱心な賛美者(セイラ・ベンハビブ)であるカストリアディスは、世界でただ一人のものとしてある人びとにとって、自分たちの全的な開花への深い必要に応えるよう世界をととのえること以上に、最善のものは何一つないと信じている。よいにせよわるいにせよ、何らかの社会は、カストリアディスにとって、いかなる必然的な「法則」(特に経済の法則と称するもの)に従っていない、共同の自己発見の、「自己創出」の、産物以外のものではない。したがってユートピア(わが哲学者が使うのを避けた用語)を人工的に望む必要はない。われわれが、われわれの行動の一つ一つによって共同の自己発見に生命を与える、と考えれば足りるのである。その生命は、われわれの行動がより意識的になりさえすれば、それだけでますます充実したものになる。「私」が「エス=それ」(1)があった場所に──社会の水準でも個人の水準でも──生じた時に、である。アンドレ・グリーンからピーター・デュウズにいたる、エルネスト・ラクロやフェルナンド・ウリバリを含む、多数の発言者が、反ラカン主義者だが断固としたフロイト派であったカストリアディスが、(その生涯の第二の時期に職業的に実践していた)精神分析に抱いていた関心を強調したのは、偶然のことではない。事実、カストリアディスが「根源的想念」と名づけ、かれが心象としてではなく意味作用を発明する力として定義した、あの実在物を考慮することをおろそかにしたとすれば、自律を具体的に考えることはできないであろう。無意識はその中でのあらゆる実現の一つでしかない。(ウリバリ)根源的想念は、結局、社会的ないし歴史的な創造の中で働く人間の力以外の何ものでもない。したがって根源的想念によって、根源的想念によってのみ、われわれは何ものかを「革命」として期待することができるのである。
残されているのは、革命がなおも可能であるかを知ることである。カストリアディスはほとんど幻想を抱かなかった。彼が人間についての定義として、マルクスのもの(経済的動物******)よりもアリストテレスのもの(政治的動物******)を好んだとしても、歴史の中で人間が十全にその「政治性」****を発揮する時期がまれであることを、彼はよく知っていたのである(ロベール・ルドケール)。にもかかわらず彼は、創造性の哲学者、絶対的な新しさの思想家(ハンス・ヨーアス)である彼は、経済的、政治的な組織についてはすべてが、あるいはほとんどすべてが、可能なものとして開かれている、と力説している。このユートピアの精神へのアッピール以上に今日、人びとを強壮にするものは何一つない。
クリスチャン・ドラカンパーニュ」。
この『ル・モンド』紙の論評は、カストリアディスの思想を限られた紙面に手際よくまとめている。彼の著作に未知な人にとっては、どんな点に着眼して彼を読んだらいいのか、手引きにもなっている。しかし彼の思想にこれまで親しんできたものにとっては、伝えられたシンポジウムの内容は、特に目新しいものではない。むしろ五十年前、三十年前の彼の仕事を確信し評価しているだけなので、何を今更という思いもする。
とはいえ、肩すかしをされたと感ずるよりも、ある傑出した思想が社会に定着してゆく長い歳月を要する過程の現場に、いま立ち会っているのだと受けとるべきなのであろう。ニューヨークのシンポジウムに二十六の大学ないし研究機関の研究者が集まったということは、少なくともそれだけの数の学術の場で、カストリアディスの研究が始まっていることを意味するし、彼の著作が古典になりかけていることを意味する。これは、カストリアディスの思想に共感を持ってきたわれわれにとって、歓迎すべきことであるに違いない。しかし必ずしも喜んでばかりはいられない気持ちもする。彼の思想は、大学で研究され、解釈され、講義され、賛美されればそれですむ、という思想ではないからである。
むしろ、単に研究や解釈の対象、賛美の対象に終わるならば、カストリアディスの思想は死ぬ。彼の思想は、真理を語り、その信奉者を求めているのではない。人びと一人一人が自律的であることをうながしている思想である。人びと一人一人が、現在に疑問を持ち、自分で考え、自分で発見し、何かしらの自発的な行動に移ってゆく、そのことをうながしている思想家である。さらにいえば、あなた方一人一人が自律的である時、私もまたより自由になる、と告げている思想である。その意味で彼の思想は、カストリアディスの名がもはや記憶から消えた時、人びと一人一人が自分になろうとする時、はじめて生きたものになる。
したがって、大学ではなく人びとの日々の暮らしの場、社会的な運動の場にこそ、カストリアディスの思想はふさわしい。そう考えれば、彼の死後三か年に見られる出版界、学界での評価の高まりは、彼の思想が人びとの間で血肉化してゆく、長い長い過程の、はじまりのはじまりにすぎない。
(1)フロイトの用語。ドイツ語ではエス。フロイトは心的過程を、超自我、自我、エスの三つに分けた。前二者は無意識的なものでもあるが、意識的なものでもありうるもの。それに対しエスは、全く無意識的な領域で、フロイトは「エスは混沌」で「自我の対立物である」といっている(『精神分析入門、下』新潮文庫、第三十一講「心的人格の分析」参照)。訳者注。
ジェラール・ダヴィッド著『コルネリウス・カストリアディス』
先にふれたダヴィッドの新著の目次を、参考までにここにあげておくことにする。カストリアディスの思想の全体像が概観できるし、さらにまた、われわれが自律的な社会を作りだしてゆく上での課題を明示してもいるからである。
序文
カストリアディスの哲学的企図、人間の創造力を考えること。自律の構想と徹底した民主主義の要求。
Ⅰ 「社会主義か野蛮か」と自律についての考察の前提
スターリン主義批判から、「官僚制資本主義」の理論へ
「社会主義か野蛮か」、その状況と企図。スターリン主義の批判と官僚制資本主義の分析。現代資本主義。
マルクス主義批判
マルクス経済理論の批判。マルクス主義の歴史的・政治的批判。マルクス主義の哲学的批判。マルクス主義との決別、その意味と含み。
継承され再点検された革命の要求
官僚制に対抗する労働者管理。社会主義の内容。革命運動の転換のために。革命の構想を考え直すこと。
Ⅱ 自律、社会転換構想の新しい像
社会の明白で絶え間ない自己=創出、革命構想の新しい目標
制度化された他律に対抗し、社会と社会自身との新しい関係を樹立すること。哲学的背景、「想念が社会を創る」ことの考察。自己=疎外に対する明白な自己=創出。
自律、実践、政治
自律の思想。実践、自律的で創造的な活動。社会の既存の制度を明白に問い直す政治。
「自律社会」の構想
自律社会、存在論的創造と政治的構想。自律社会存在の諸条件。自律社会と革命。
社会、個人、パイディア、人類学的変化の過程
社会、個人、文化の循環関係。自律的な主体。自律への社会化とパイディアの役割。自律に向かっての社会の転換、人類学的変化。
Ⅲ 自律の構想、真の民主主義への運動
自律の構想、連続する社会・歴史的創造
伝統と遺産。ギリシャの「芽」、民主主義の創造。自律と民主主義の要求の社会・歴史的な継続。
自律社会の基本的な諸価値と諸原則
軸になる諸価値、自由、平等、正義。共同の自律という思想の規範的帰結。
自律社会の具体的構造化と運営
共同管理の思想の社会・政治的な結果、労働者評議会の制度。社会・政治的な諸領域の連結と公/公的領域を真に公的なものにする要求。
自律社会、真の民主主義
自律社会と真の民主主義の同一性。制度としての民主主義。民主主義、悲劇的な制度。民主主義、熟考性、創造性。
真の民主主義樹立の諸条件
政治、自律に向けての個人と共同の行動。パイディアと民主主義の人類学的基体。社会の徹底した民主的な転換、錯綜とした過程。
自律社会の正当化
自律の構想の社会・歴史的な有効性。自律の構想の「法的有効性」。自律の構想の普遍性。
Ⅳ 民主主義的な自律、今日のための政治的構想
西欧の近代性
現代という文脈の背景、近代性。自律対合理的制覇の無限の発展。近代西欧の政治的特殊性。
現代の諸社会
現代の官僚制的資本主義。社会と文化の危機。かげる自律の構想。現代諸社会の批判。
どんな民主主義か?
自律の構想、現実への視点とわれわれにとっての目標。民主主義の構想、自律の構想の政治的形態。個人と共同の自律に向けての参加型民主主義。
民主主義的自律の今日、われわれにとっての挑戦
自律への諸傾向と「実践の輪」。自律的・民主的な動員の必要と諸条件。経済の格下げと階級制への徹底した批判。民主的よみがえりのために。
エピローグ
ダヴィッドの本の構成について、蛇足を少し。Ⅰ章は、カストリアディスの一九四〇年代末から六〇年代半ばまでの作業、ソ連社会分析からマルクス主義批判を深め、新しい革命像を提示するまでを扱っている。ついでマルクス主義を生みだしたギリシャ・西欧思想史総体を再点検する沈黙の十年が来て、根源的想念にもとづく哲学が構築される。その哲学的作業が自律の思想にいかに新しさを与えたのか、がⅡ章の主題。つづく二章は自律社会を目指す実践をめぐり、Ⅲ章では原理的に、Ⅳ章においては現代の状況を前にして、語っている。
エピローグでは、「自律の構想」は長年にわたる社会運動の伝統を継承したもので、決して非現実的なものではない、と次のように強調している。
「社会の徹底した民主的転換を目指す包括的な政治構想としての、自律の構想が今日、……圧倒的な関心の的になっていると見るのは、無邪気にすぎよう。しかしそれでは、あの構想は非現実的なのだろうか。
われわれがその相続人である一連の創造──解放を求め支配に反対した社会的・政治的闘争の長い豊かな伝統によってもたらされた、自由・自省・自己統治の構想──の中に加えられるあの徹底して民主的な構想は、ユートピアではない。それは、否定しえない将来への役割を含んでいる。それに対し厳密な意味でのユートピアは、全く別のものである。それは時空の外にあり、既存の諸現実と何の関係もない。………
その現実と無関係だという事情は、カストリアディスが推進する自律については、いささかも同じではない。それは、思想においても現実においても、地上のエデンの園の建設とは何のかかわりもない。それは、政治的選択を表明するある解釈に明確にもとづいた、構想なのである。ただその存在理由、その必要性、その正当化は、彼が生み出せなかった現実の基盤の中に見出される。すなわち、社会の多様な危機、多数の個人ないし社会的グループによる体制への明白な、あるいは暗々裡の異議申し立て、自律に向かう実際の諸傾向の中に、である。……」。
さらに著者は、自律の構想が直面するさまざまな困難について語りながら、「民主的な運動の再生は、政治的組織の新しい形態の創造に助けられねばならないであろう」という、カストリアディスの言葉を引いている。その上でわれわれの任務として、「問題の再生の諸条件を明らかにすること、それなしには自律の構想も真の民主主義も単に言葉でしかない、個人と共同の実践に実体を与えること」、をあげている。
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