Anarchisme et santé, Isaad Puente / Anarchism and health, Isaac Puente
「感染症×アナキスト(医療編)
〈アナキスト医師/イサック・プエンテ〉」
当センター通信で連載「テキスト×アナキスト」がスタートしたばかりの海老原弘子さんによる緊急寄稿「感染症×アナキスト」後編(医療編)を掲載します。
*前編(教育編ーアナキスト教育者/フェレ・イ・グアルディア)はこちらから。
ベストセラー作家クロポトキン
《現代の学校》を創設したアナキスト教育者フランシスコ・フェレ・イ・グアルディアの敵は、カトリック教会だけではなかった。政治、 経済、文化と権威を頂点とするピラミッド型組織として成り立つ各界の大物の中に、フェレを憎んでいた者は数知れない。あらゆる権威を否定するフェレは、既存のスペイン社会全体にとっての「Persona non grata(好ましからざる人物)」だったのだ。
その一人が『大衆の反逆』の著者ホセ・オルテガ・イ・ガセットと並ぶスペイン哲学界の巨人ミゲル・デ・ウナムノだった。フェレを毛嫌いしていたようで、処刑に際して「フェレというくだらない人間が銃殺された。狂人、間抜け、臆病な犯罪者を混ぜ合わせたような輩だった」と公言して憚らなかった。とはいうものの、後年この件に関して「かつて私は罪を犯した。公正さという神聖なものに対して深刻な罪を犯した」と自らの言動を悔い改めることになる。
本稿で「アナキストの敵」とも言えるウナムノに登場いただいたのは、彼宛の書簡にクロポトキンの『麺麭の略取』について大変興味深い記述があるからだ。差出人はフランシスコ・センペレ。ショーペンハウアーやニーチェ、エンゲルスなどの著作をスペイン語訳で世に出したバレンシアの編集者である。センペレが1909年3月ウナムノに宛てた手紙では、自ら手がけた『麺麭の略取』スペイン語版のスペインとアメリカでの売上げについて言及しているのだが、その数なんと5万8千冊。それ以前にもバルセロナの三つの出版社が異なる版を出しており、20世紀初頭にはカタルーニャだけで5万冊近くが流通していたという。当時のスペインで聖書、あるいはセルバンテスの『エル・キホーテ』に次ぐ、歴史的ベストセラー作品と見なされたのも不思議ではない。
スペインの労働者がマルクスよりもクロポトキンを好んだのは、前者が難解な言葉で貧困の原因を説く一方で、後者は平易な言葉で何をすべきかを訴えたからだと言われる。貧困に苦しむ労働者が知りたいと思っていたのは、貧困を生み出すメカニズムではなく、貧困に対峙する方法だったのだ。労働者の必読書であったクロポトキンの著作を貪るように読んだ若者の一人が、後にアナキズム革命の基礎となるパンフレットを書くことになる。
スペイン風邪の襲来
スペイン史上、人口が減少に転じたのは現在までに二度。一度目が8万3千人余りを失った1918年、二度目が 5万人余りを失った1939年(市民戦争終結の年)といえば「スペイン風邪(スペインでは「ナポリの兵士」と呼ばれた)」の衝撃が想像いただけるだろう。最新の研究では1918-1920年にかけて人口の1.25%に当たる26万人が犠牲となったとされる。スペインに深い爪痕を残した感染症の流行は、生存ギリギリの生活を強いられてきた労働者階級を一層厳しい状況に追い込んだ。路上での抗議行動が増加の一途を辿り、1919年2月には44日間に渡ってバルセロナを完全な麻痺状態に陥れた「カナデンカのストライキ」として花開く。中央政府を8時間労働の法制化の実施に追い込んだこのストは、 アナルコシンディカリズム労働組合 CNT最大の功績として歴史に刻まれた。
1918年春にスペイン風邪が上陸すると、医学生は前倒しで卒業となって医療現場に送られた。そんな医者の卵の中にバスク出身のイサック・プエンテがいた。バリャドリッド(カスティーリャ・イ・レオン州)で医学を修めていたが、徴兵により軍医として医師のキャリアを開始。その後、生まれ故郷バスクのアラバ県にある小さな村マエストゥで市の正医師の職を得て、村医として生涯を終えることになる。ただ、現在でいうなら生活保護受給世帯を担当する医師にあたり、給与だけではとても生活できなかったため、ビトリア市の冶金工業会社の産業医を兼務していた。
1920年代に友人を通じて CNTを知り、1923年からアナキストの健康雑誌に《El médico rural/田舎の医者》の偽名で寄稿を始める。当時のアナキスト雑誌のラインナップに病気の予防に焦点を当てた記事を掲載する健康誌がいくつも並ぶのは、《Naturalismo/自然主義》の影響を色濃く受けたスペインのアナキストが健康を人間の幸福の基礎とみなしていたためだ。医師は患者の病気ではなく健康から生計を立てるべきだという発想から、雑誌を通じて衛生や病気予防のプロパガンダを行うことも医師の重要な仕事であった。
当時のアナキスト医師たちが最も心を砕いていたテーマは、労働者階級の死因の上位を占めていた結核。こうした感染症が蔓延する原因は、経済的困窮に起因する衛生管理の欠如や貧困な社会システムであると考えていた。貧困世帯や労働者の健康状態を熟知するプエンテも、感染症の撲滅に必要なのは特効薬でもワクチンでもなく、貧困を生み出す社会構造の変革だと主張するアナキスト医師の一人だった。
国家なき共産主義
プエンテは市民戦争勃発の前に 『El comunismo libertario (en oposición al de la URSS)/コムニスモ・リベルタリオ(ソ連の共産主義への異議申立として)』を書き上げていた。クロポトキンの影響の下、副題にあるように国家中心のソ連型共産主義を批判して、国家なき共産主義の実践モデルを具体的に提示した30ページに満たない冊子だ。
1917年、ロシアで革命が起こると、スペインのアナキストたちは歓喜に沸く。早速CNTは代表団を派遣するが、現地を視察した同志の報告を聞いて希望は失望に変わった。かの地では革命に協力したアナキストがことごとく弾圧されているというではないか。やはり、問題は国家なのだ。アナキストたちは、国家を中心にしたソ連の《Comunismo autoritario /権威主義的コムニスモ》に対抗して、反権威主義的な国家なき共産主義《コムニスモ・リベルタリオ》の実践モデルの具体化に知恵を絞る。こうして出てきた数々のアイデアの中にプエンテの著作があった。
彼によれば《コムニスモ・リベルタリオ》とは、国家や政治を必要とせずに経済問題を解消する制度であり、「各々が能力と必要性に合わせてできることを行う」ことで社会を動かしていく仕組みだ。国家も私有財産もなしに社会を組織するには、農業生産者や職人のように各自が独立して労働を行う農村の住民で構成される《Munincipio libre/自由市》と工場労働者のように作業工程を分担して共同で労働を行う都市の住民が参加する《Sindicato/労働組合》を柱にして、 逆ピラミッド型に社会を組織すれば良いと説く。病気とは貧困や経済格差によって生まれる《Enfermedades sociales/社会的な病気》であるから、 それらを生み出す原因となっている国家や経済システム、支配的なモラルを覆すことこそが根本的な解決策と信じていたプエンテにとっては、《コムニスモ・リベルタリオ》の実現に寄与することもまた、医師としての責務を果たすことに他ならなかった。
1933年の出版後何度も版が重ねられ、3年余りで約10万部が刷られたとされる。休憩時間に工場の敷地の片隅や畑の大きな木陰で、あるいは仕事の後地域の文化センター《Ateneu/アテネウ》で 、労働者たちは印刷物を通じて《La Idea/ラ・イデア》と呼ばれるアナキズムを吸収していった。こうして、いつしか彼らの頭の中で一つの新しい世界のモデルが共有されていく。1936年5月にサラゴサで開催された総会でCNTが採択した革命の基本方針は、 プエンテの《コムニスモ・リベルタリオ》に着想を得たものであった。
アナキズム革命
1936年7月、イタリアとドイツの支援を受けたフランコ将軍率いる反乱軍が、スペイン各地で一斉に蜂起する。バルセロナでは武装した民衆が反乱軍を制圧するものの、市街戦後に自治州政府に残っていた閣僚は州大統領コンパンチだけという状況で、カタルーニャは実質的な無政府状態になっていた。
過去の蓄積の中にその正統性を持つ権威は、 未来が見渡せない混沌とした状況では何の役にも立たない。カタルーニャの労働者たちは、誰に命じられることもないまま、頭の中に思い描いてきた《コムニスモ・リベルタリオ》を実践に移した。反乱軍側はプエンテを捕らえて銃殺するが、そのアイデアまで殺すことはできない。こうして始まったのがスペインのアナキズム革命だ。カタルーニャではあらゆる社会システム、つまり社会全体がCNTを中心に再編成された。
9月に州政府の管轄にあった医療システムが組合の管理下に入ると、反乱軍との戦闘が続く中で、大規模な公的医療制度改革がスタートする。接収した宗教施設や邸宅などを利用して、設備に問題がある古い病院を、採光と換気など衛生面に配慮した近代的な病院に変えていった。例えば修道院を改装した《Hospital del Pueblo/民衆病院》は、医師13人、看護師と研修生40人という人員を配し、手術室、診療所、400床の病室、さらには療養所を併設した総合病院だった。そして今まで聖人の名称がつけられていた病院を《Libertario/リベルタリオ(スペインでは「アナキスト」より頻繁に用いられる)》の名前に変える。その中には「フェレ・イ・グアルディア院」もあった。
また、病院の外での衛生管理や病気予防にも力を入れた。労働環境の改善を目的に工場や事業所にはガラス窓やトイレ、シャワー室などを新設する改修が進められ、労働者の健康管理が義務となる。また、前線に向かう兵士には石鹸、タオル、歯ブラシと歯磨き粉といった衛生品が配られた。こうして、戦時下のカタルーニャで公的医療制度は教育制度とともに、飛躍的な発展を遂げることになった。しかし、戦争という魔物の長い舌はすぐそこまで迫っており、間もなくすべてが戦火に飲み込まれてしまう。
1939年1月 バルセロナがフランコ反乱軍の手に落ちると、アナキズム革命の成果であった病院、工場、学校、図書館は跡形もなく破壊された。現在のバルセロナには、当時を偲ばせるものはほとんど残っていない。奇しくもガウディの教会サグラダ・ファミリアが、アナキストの都だったバルセロナを知る数少ない証人となった。成長を続ける巨大な建造物を目にするたび、 《対脳ダイナマイト》(*編集部注)によって「民衆図書館」に変えられた姿を夢想してみる。
(えびはら・ひろこ:カタルーニャのアナキズム愛好家)
*編集部注:詳しくは、『アナキズム文献センター通信 52号』に掲載の海老原弘子さん「テキスト×アナキスト①DINAMITA CEREBRAL/対脳ダイナマイト」をご参照ください。