最近の社会闘争におけるアナキスト [1996]

一九九〇年代の初めから、アナーキズム運動はフランスでまぎれ もない状況の好転を見ている。いくつかの鍵となる日づけがこの躍進の目印となる。一九九一年の湾岸戦争への反対、一九九四年のCI P( 就 職 契 約)案への反対運動、一九九五年秋の社会運動、一九九六年六月のリヨンにおけるG7サミットへの反対デモ、そしてー九九六年 夏のローマ教卓ヨハネHパウロ二世来仏への反対である。

最近の社会闘争におけるアナーキスト達



それまで、アナーキズム運動は、多少ともミッテラン主義に系列化された極左グループやエコロジストとは反対に、ミッテラン政権下二十年の闘争による出血にも屈することのない、市民社会の数少い構成要素のひとつであって、わずかながらだが拡大さえしていた。

 湾岸戦争のとき、フランス国民のすくなからぬ部分は戦争という考えそのものに反感を示し、アメリカのテレビ局CNNに支配されたメディアの宣伝を拒絶し、外交政策をとおして、シラク=ミッテランの有名な「保革共存」(コアビタシオン)政策を弾劾した。ときの国防大臣は、平和主義者として評判の社会党左派のリーダー、ジャン=ピエール・シュヴェヌマンにほかならない。そこでコミュニストからアナーキストまで、おおよそ社会民主主義の「左」に位置するすべての政治的感性が華々しく動員されたのだ。

 しかし、ジャン=マリー・ル・ベンの極右政党<国民戦線>が、外国人排斥の組織であったにもかかわらずアラブのバース党のナショナリズムを支持して戦争に反対し、また極左の諸組織が、公言しないものの、反米的な第三世界主義の名のもとにイラクを支持したとき、アナーキストだけはアメリカの帝国主義とイラクの独裁のどちらをも退けたのであった。この立場は特定の人々の賛同をえた。

 <アナーキスト連盟>は、「晴れた湾岸沿いにゆらめいて見える戦争は銀色に反射している」と題したビラをまいたが、これは、シャルル・トレネの有名なシャンソンのうちでもとくに万人によく知られているある曲の一節のパロディである。語の遊びで海の波の「銀」色(アルジヤン)は資本と石油の「 金」(アルジヤン)を指しており、「湾岸」は当然ペルシャ湾のことなのだ。込められたメッセー.ジはすぐ理解され、このビラは大成功をおさめた。

 一九九四年にバラデュール政権によって検討されたCIP案はおおくの若者を目覚めさせ、彼らは安上りの未来をあてがわれるのを拒絶した。自分の最初の仕事の報酬が、見習い期間中とはいえ、同じ資格の通常のサラリーマンの給料より二〇から二五%安く見積もられているという考えそのものが、彼らには許し難いものに思われた。CIP反対のー連の大規模なデモのなかでアナキストの隊列は、湾岸戦争のあいだ以上に大きかった。アナーキストの発言は大会のあいだしばしば聞かれ、政治や運動と接触をもつ若者の新しい層を魅了した。そうした発言は大学生よりも職業高校(LEP)の若者のあいだに反響を呼び、彼らはこの機会に自分たちのすばらしい組織化の能力を示したのだ。この反CIP運動におけるアナーキストの象徴は、アナルコ・サンディカリストである、フランスCNTの若い活動家が交渉の席上、大臣との握手を拒んだことだろう。彼に言わせれば、そうすることを波は委任されていなかったからなのである。

一九九五年秋の転機


 一九九五年秋の「十一~十二月運動」とも呼ばれる大規模な権利要求運動は、フランスの労働者階級の、あるものにいわせれば目覚めであり、他のものにいわせれば白鳥の歌であった。それは二ヵ月近くにわたる公共部門、とりわけSNCF(フランス国有鉄道)の労働者、そして郵便局員、ガス・電気会社員、教員……などによるストライキによって注目を集めた。
 この闘争は公務員の既得権と職種別の地位の維持を要求するばかり でなく、それをこえて、「セキュ」を守ることを目指すものでもあっ た。「セキュ」とは、第二次大戦直後労働者階級によって獲得された 社会保障制度を指す俗語である。「セキュ」が象徴するのは私有でも 国営でもない市民社会の「第三セクター」、相互扶助的なセクターで あり、それこそ「アナーキズムの父」のー人ピエール=ジョゼフ・ブ ルードン(1809-1865)に欠かせぬ原理のひとつ、社会連帯の原理を具現 するものにほかならない。

 自由主義と株式投機と、あらゆるものの熱狂的な競争の思想が勝ち誇る時代にも、国民の大部分はあきらかにイデオロギー的に正反対の立場をとり、連帯と集団闘争の原理を理想として再確認していたのである。この二重の傾向をあらわす二つの主要なスローガンは次のようなものだ。「セキュはわれらのもの、その獲得のために闘った、いまそれを守るために闘おう」、「みんなー緒に、みんなー緒に、よし、よし!」。この闘争は公共部門にとどまらず、民間の労働者にも広く支持された。彼らのための「代理ストライキ」さえも話題にのぼったが、いくつかの場所で彼らはみずから闘いに身を投じた。全員が、民衆意識の、ふたたび見出された階級愛の大きな高まりのなかにあった。

 この運動を白鳥の歌ととらえた人々の議論は、資本の世界化とマーストリヒト条約のヨーロッパという枠組みのなかにおける、公務員職務の解体と公共・民間を問わないその身分の不安定化という予測を根拠としている。彼らにとっては引き延ばし作戦が問題なのだ。それに対し、この運動を「目覚め」ととらえる人々は、下部の立場や、「やつらには何もない、すべてはわれらがもの」、「経営者を解雇しよう」のようないくつかのスローガンに見られる急進性が、現実的な自覚、すなわち、とくに若者にとってのより良い生活条件の希求と同時に、あらゆる面での不安定化と失業の脅迫にたいする深い拒絶を意味すると評価している。自分の子供に、自分たちが無意味に闘いはしなかったし、無意味に働いてきたわけではなかったことを示したいと願う、退職間際の労働者は大勢いるのだ。

  組合官僚たちは、下から、街頭からの圧力のもと、多少とも攻撃的姿勢を示さざるを得なかった。彼らは、仲違いした兄弟である内輪の二つの流派、すなわちCGT( 共産党に率いられるへ労働総同盟)とFO(一九四七年に反共、反スターリニズムにもとづいて創設された<労働者の力派>)とのために、戦術的な妥協さえした。しかし両派は公共部門の労働者と民間の労働者とのあらゆる結びつきを阻止した。アナーキスト、ミハイル・バクーニン(1814-1876)が最初に発案し、一九一四年以前の革命主義的CGTによって再度取りあげられ、その後何度も大会や組合官僚のトップ自身によって言及されたゼネストの脅迫は、ついに実行には移されなかった。

 ストライキ参加者を輸送機関や公共サービスの利用者と対立させようとする、メディアをとおしての反対宣伝は失敗に終わり、運動は民衆のあいだで広く成功をおさめた。一九六八年五月、さらにはー九三六年六月のとき以上に大規模な膨大なデモが、フランスの大都市ばかりか、新事実だったが、公共サービスや公共輸送機関に大きく依存すると考えられていた大部分の中小都市でもくりひろげられたのだ。

 アナーキストはこの闘争中とりわけ活動的であって、自分たちのかかわる部門の大会、とくに鉄道員と郵便局員の大会に参加し、バリでは数千人、地方(リヨン、リール、トゥールーズ、ルーアン…)では数百人を集めて隊列をくみ、暫定的な代表の派遣や、最高機関であり決定権をもつ大会からの指令、直接行動と闘争の連合をひろく呼びかけた。黒旗、そして赤と黒の旗があちらこちらではためいていた。 アナーキストは、運動をマーストリヒト条約のたんなる拒絶としか捉えていない人々(共産主義者、シュヴェヌマン派、トロッキスト)の愚劣さや小細工に注意を喚起した。そうした解釈は、反マーストリヒト国民投票や反マーストリヒト政府型の政治屋のキャンペーンに直結するもので、<国民戦線>もマーストリヒトに反対しているだけに危険なものであった。アナーキストはトップの官僚主義的画策を告発したが、だからといって、いくらゼネストの原理に忠実だとはいえ、力が成熟していないのに、それにかかわる空疎な、とりわけ思い切ったスローガンをつくることは差し控えた。もしゼネストがうまく運ばず、占拠もおこなわれず、何の成果にもつながらないとしたら、戦前のファシズムにたいする経験が示したように、全面的な意気阻喪という頽廃的で否定的な恐るべき結果がもたらされるかもしれないからであった。

十一~十二月以後

 
 リヨンにおけるG7サミット開催反対のデモは、前年の秋に表明されたもっとも前進したイデオロギー上の立場の確認になるか否かが注目されていた。事実、それは政治的に重要な瞬間だった。しかしCGTは単独行動を選び、六月二五日に八万人のデモ行進を首尾よくやってのけた。なによりもまず組合非加入の諸組織によって呼びかけられたー九九六年六月二二日のデモは、それでもー万人を集めたが、うち優に三分の一はアナーキストと絶対自由主義者だった。

 ついでー九九六年夏のブルターニュ地方とランスへの教皇ヨハネ=パウロ二世の来訪は、古い反宗教的左翼さえもミッテランのもと政教分離の闘いを放棄したフランス社会で、たぶんもっともイデオロギー的で、またもっとも合意にみちた出会いの機会だった。それに反対を唱え、イスラム教を含むすべての宗教の退嬰的性格、たとえば妊娠中絶、避妊、道徳的秩序についてのヴァチカンの反動的立場を糾弾し、旧ユーゴスラヴィアやルワンダにおけるその政治的役割を告発できるのは、実際にはアナーキスト達しかいないのである。<アナーキスト連盟>が大いに活性化させた「教皇にお帰り頂こう」というキャンペーンは、メディアと伝統的な左翼のきびしい無視にもかかわらず、大衆のあいだである程度の成功をおさめた。教皇が訪れた場所から遠くない、カトリック色の強いブルターニュ地方の小都市ロリアンでのデモは、アナーキストの横断幕を先頭にする三千の人々を集めた。

鍵となるこれらの事件のほか、さまざまな闘争へのアナーキストのつよい関わりも見逃してはならない。女性の権利、避妊、中絶問題のための闘争──一九九五年十月の、フェミニズム統一デモではアナーキストの行進に数百人が集まった。アナーキストの古い伝統として「夜逃げ」を連想させるが、とりわけパリにおける、住宅問題と住居強制立ち退きの問題のための闘争。移民の擁護と不法入国者の正規受入れのための闘争。公教育においてばかりではなく、オレロン島における自主管理校「ボナベントゥラ」の、それ自体顕著にアナーキズム的な創設をともなう、絶対自由主義的な教育制度のための闘争。刑務所の閉鎖性に反対し、囚人の権利を守るためのOIP (<国際刑務所研究所>のネットワークと<ラジオ・リベルテール>の受刑者向け放送とによる活動。またさらに、国際語エスペラントの普及のための活動。

アナズム組織の状況

注目すべきなのは、フランスのメディア、とりわけ各テレビ 局が、パリのみならず地方のいたるところで見られるこれらの示威行動のすべてにおいて、アナーキストの行進がしだいに人数をふやしていることについて沈黙 を守ってきたことだ。その後有名になったテレビ番組「討議する」(サ・ス・デイスキユト)のテスト版はアナーキズムを取りあげたが、放映はされなかった。 『ル・モンド』や『リベラシオン』などのいくつかの日刊紙、また『ル・ヌーヴェル・.オプセルヴァトゥール』や『レヴェヌマン・デュ・ジュディ』などの週 刊誌がルポルタージュを掲載したが、それらはとても短く、細切れで、情報も不足、せいぜいよくて恩着せがましく、ふつうはセンセーショナルなものばかり追 うものだった。そんなわけで、現象の意味についての徹底的な分析はまったくおこなわれなかった。こうした状況のなかで、論評とニュースを扱うある外国の雑 誌がまとまったぺージを割いてくれたことは──私たちの知るかぎりはじめてのこころみだったが──称賛したい。

「アナーキスト」という語によって理解されるのは、個人、個人がつくるグループ、組織その他である。それはー方では、<アナーキスト連盟>に属するといっ た具合に、社会的立場や「基本原理」においてはっきりとそう定義されるものであり、他方では、アナーキズム運動の理論と歴史を援用するものなのだ。意味の 明瞭さと方法論的な利便性への配慮のほか、こうした定義を選ぶことには二つの利点がある。まず、たとえばテロリストの活動のように、政府やメディアはア ナーキストのものと見なしているが、アナーキズム運動の側からはそう受けとられていない活動について、政府やメディアの用いる卑俗な呼称やその他誤った解 釈を避けることができる。つぎに、ときおり、とりわけ闘争の現場においてアナーキズムに近づけられるものの、とくにアナーキズムに属すると主張するわけで はない別のグループや勢力をアナキズム運動から区別することができる。

このカテゴリーに属するのは次のようなものだ。急進的反ファシズム組織、たとえば<ノー・パサラン・ネットワーク>となった旧SCALP (<断固ル・ベン反対セクション>)など。ピレネー山脈ソンポールのトンネル建設反対委員会。サパタ主義者支援委員会。またダニエル・ゲランの系譜の「絶 対自由主義的マルクス主義」を標榜する諸グループ。たとえばー九八一年及びー九八八年にミッテランへの投票を呼びかけた、旧UTCL(<絶対自由主義共産 主義労働者連合>)からー九九〇年代はじめに分かれた<絶対自由主義的二者択一 アルテルナテイヴ・リべルテール>(フランス)。これは<アナーキスト連 盟>のメンバーが加わってブリュッセルで発行されている新聞『アルテルナティヴ・リベルテール』(ベルギー)と混同されてはならない。

 こうした「勢力」にはときおり「絶対自由主義的 リベルテール」という語がつけられる。この用語が「アナーキスト」より幅ひろく、怖がらせることもすく なく、それだけにときとしてより曖昧でもあるからである。こうした呼称は、これらグループの区別をかならずしも理解しているとはいえない外部によって用い られることもあれば、FAのような組織されたアナーキズム運動をしばしば批判するとはいえ、つねにそれに準拠している「勢力」内部によってさえも用いられ る。実際、このような勢力は、手に負えぬ極左派と無力化したエコロジスト運動とのあいだにおける自己確認の標識と、現場における闘争の実状以上の知名度を あたえてくれるかもしれない、運動の機関誌(紙)とを必要としているのだ。

 もちろん、アナーキストの語、思想、行動は、ア ナーキストやアナーキズム組織にのみ属するものではない。各人や各人の属する個々のグループのなかに、自由、解放への基本的熱望、すなわちアナーキストの 現実的実践によって翻訳されるような絶対自由主義的な酵素、が存在すると考えることは、すくなくとも、その弁証法的な思考を、経済的、社会的、政治的、文 化的生活のあらゆる領域における権威と自由との恒久的対立に分節化したブルードン以来、アナーキズム理論の第一歩である。たとえ語はあらわれなくとも、事 物は存在し得る。とはいえあきらかに、そうした酵素は、それのみが完成しうる社会計画について、依然として不明瞭なヴィジョンしか結局はもっていない。そ のようなさまざまな絶対自由主義的酵素の意識化と連合化という作業にあたって、アナーキストとアナーキズム組織がなすべきことは、社会運動のなかで「行動 的少数派」の立場に立ち、イタリアのアナーキスト、エンリッコ・マラテスタ(1853-1932)が記したように、そこで酵母の役割を果たすことである。 フランスのアナーキストがたとえ異なった解釈をしているにせよ絶えず準拠するー九三六年のスペイン革命の例は、アナーキズムの社会計画の原寸大での最大 規模の実験が──集産化、直接管理、反ファシズム・反マルクス主義の革命闘争とともに── 絶対自由主義的理想の孵化と増殖によって数十年来準備されてきていたからこそはじめて可能になったのだということを示しているのである。一九三六年七月、 フランコのクーデターと反フランコの蜂起の日、スペインの労働者が自分たちの運命をしっかりとみずからのものにしようと立ち上がるのに、CNT(労働国民 連合)とFAI(イベリァ・アナーキスト連盟)が指令を発する必要さえなかったのだ。
このように歴史を簡単に想い起こすことは、またフランスにおける現在の状況を理解する助けとなる。記憶の永続は、すべての方面で、右翼からも左翼から も、社会民主主義、マルクス主義、スターリニズム、トロツキズム、毛沢東主義などいたるところから抑圧を受けてきたアナーキストにとってひじょうに強力な ものなのである。新しいアナーキスト活動家の参画は大きくこの記憶にもとづくのであって、フランスCNTが現に若者のあいだで、とりわけパリ地区で博した 成功は、部分的には、プロレタリアートの強力なアイデンティティとスペインの偉大なサガ(伝説)のつくりだす、いまなお現実的なこの神話への賛同によって 説明されるだろう。

 それに、このスペインのサガの永続はフランスに特有のものでもあって、それは、一九三九年以来、あらゆる隷従までふくむスペイン共和国の難民がフランス へ定住したことによって広く助長されているのだ。時がたちフランコ主義の終焉とともに、フランスに亡命したスペイン系アナーキズム運動、あるいは「亡命 派」は、その力を失いはした。しかしほとんどあらゆるところで、すべての大都市においてはかならず、スペイン系アナーキストのグループはなお存在しつづ け、いまなお存在している。そして今日のアナーキストの行進においても、だれそれの祖父が反フランコのスペイン人亡命者だったというのはよく耳にするとこ ろである。今日にいたるまで、とりわけ労働問題に関して、スペイン系亡命アナーキストの存在は、フランスにおけるアナーキズム運動の構造に重要な影響をひ としくおよぼしている。

 二つの組織が今日フランスにおけるアナーキズム運動の根幹をなしている。FAーf(<フランス語圏アナーキスト連盟>、一般にFAと略記)と CNT-f(<フランス労働国民連合>)である。多くの同志が二重に加盟しているこれらの二つの組織のあいだの関係は、協調と潜在的な対抗とのあい だを揺れ動いている。この逆説的な状況は、フランスにおける労働界の歴史的遺産と現下の変動とによって二重に説明されるだろう。

<アナーキスト連盟>、特殊な組織


<フランス語圏アナーキスト連盟>、これが「規約上の」名称であり、戦後創設された。最初にきたのが、FCL(<絶対自由主義共産主義連盟>)の分裂に示 される、一九五〇年代の内部の苦難の時期である。FCLは当初若返りの意志、アルジェリア独立の支持、結局は当選第一主義と内部破裂におわったある種の労 働組合至上主義によって鼓舞されていた。つぎが六八年五月の爆発。このとき連盟は<五月二十二日運動>の絶対自由主義的新左翼によってきびしい批判をうけ た。絶対自由主義的新左翼の崩壊する一九七〇年代の低迷期。そして一九八〇年代の漸進的勢力拡張期。その前触れとなる転機のひとつが、<基本原理>のなか で階級闘争を確認した一九七九年のフレーヌ=アントニーの大会だった。

 <アナーキスト連盟>は、伝統的に知られる三つの流派、すなわち個人主義、アナルコ・サンディカリズム、絶対自由主義的共産主義のあいだの統合的な組織 であろうとした。しかしその場合、戦前のもっとも知られたアナーキスト活動家のー人セバスチャン・フォーレ(1858-1942)の統合とともに、サンク ト・ベテルスブルグの第一回ソヴェト大会に出席し、ロシア革命でネストール・マフノ(1889-1934)のもとで闘い、のちにフランスに亡命したロシア のアナーキスト、ヴォーリン(1882-1946)の、より構造化されより「階級主義」的な統合も問題となるだろう。ところが実際には、若い世代の活動家 たちは、自分たちにはあまりにも抽象的か時代おくれに見える、流派のこうした区分にはあまり敏感ではなく、おおくのものは自分をたんに「アナーキスト」だ と考えている。

一九九六年五月にトゥールーズで開催された前回の大会における討議内容から判断すれば、<アナーキスト連盟>はフランスの百近い県のほとんどすべてに存在 している。勢力の定着が強固なのは、パリ地区、ローヌ=アルプ地区(リヨン、サン=テティェンヌ、グルノーブル…)、南西部(トウールーズ、ボルドー、ピ レネー、ベルピニャン…、西部(ブルターニュ、ロァール地方、ポワトゥー)、北部(リールとベルギー)、そして地中海周辺(モンプリエ、ニーム、マルセー ユ、トゥーロン、ニース…)である。

 <アナーキスト連盟>はいくつもの武器に恵まれている。連盟の書店、パリの<フブリコ>。発行部数約八千(特別なときはその倍)、定期購読者千の、八 ページからなる週刊紙『ル・モンド・リベルテール』。五〇人が制作に携わり、パリからFMで放送され(89.4Mhz)、公式調査の数字によればー日平均 三万五千人が聴いているという連盟のラジオ放送<ラジオ・リベルテール>。地方のグループの大部分は建物(リヨン、リール、ルーアン、ナント、レンヌ、ボ ルドー、トゥールーズ、モンプリエ、サン=テティェンヌ、ディジョン・・・)と情報紙ぎきに加えてブザンソン、ブレスト、メルルバック…)を持ち、後者は しばしば、とりわけローヌ=アルプ地区では、ネットワークとして組織されている(<経済的社会的平等>、<黒い思想>、<労働者ネットワーク>…)。 <アナーキスト連盟>への加盟は、グループで、紹介で、またまったくの個人でなされる。加入の契約は、組織が大会で決めた規約「基本原理」の遵守にある。 年にー度の大会が最高権限を持つ場である。それは全会一致によって運営されるが、難航の場合、「友好的棄権」が奨励される。大会はさまざまな種類の事務局 (内外もしくは国際的諸関係、会計、出版、記録文書保管など)、機関紙編集委員会、専門職の専従職員(書店、新聞、ラジオの経営)を任命する。最後に大会 は方針の動議やキャンペーンを決定する。

 <アナーキスト連盟>のメンバーは、たとえ改革派であっても、多様な労働組合に加入することができる。たとえばCGT、CFDT(フランス民主主 義労働同盟、一九六四年以来公式に非宗教化され、六八年の五月革命により活性化され、のち社会党の傘下に入った)、FO、FEN(<国民教育連盟>)、あ るいは以下のような新しい組合に。SUD(<団結、統 一、民主 >、CFDTからの急進派の除名者からなり、とりわけ郵便、鉄道におおい)、CRC(<連 携、結 集、建設 >、前者とおなじだが保健関係におおい)、FSU(<統一組合連盟>、FENからの最近の急進約分派)そしてCNT…。彼らは自分の企業におけるその組合 の戦闘性に応じて、さらにその未来への展望に応じて、自分の加入する組合を選ぶ。場所によっては、改革派の組合はアナルコ・サンディカリズム的行動にたい して多少とも大きな活動の余地を残しているといえるだろう。

 FAのメンバーはだからフランスCNTに自動的に加入するわけではない。戦術的な理由のほか、このことにはまた歴史的で戦略上のいくつかの理由がある。 フランスはながいあいだ、一九四五年以前にはひどく少数派だったキリスト教系組合をのぞけば、組合の統ー組織のある稀な国のひとつだった。その組織とは昔 のCGTのことであり、それはそもそものはじめにアナーキストが、フェルナン・ベルティエ1867-1901、エミール・プージェ1860-1931、 ジョルジュ・イヴトあるいはヴィクトール・グリフュエル1874-1923といった人物とともに、ひろくその創立を助けたものだった。

 社会民主主義の偏向とボルシェビキの乗っとりにもかかわら ず、ー九四五年以前の統一気運はフランス労働者運動においてはつねに充分強いものだったので、たとえばー九二二年のCGTU(<統一労働総同盟>)の分 裂、さらにそのCGTUの一九二八年におけるピエール・ベナールらアナーキスト(一万人の賛同者がいた)によるCGT-SR(<革命主義的サンディカリズ ム労働総同盟>)への再分裂ののち、一九三六年のCGT再統一へとつながった。ブルジョアジーに対抗してはっきりと統H一して組織されなければならぬとい う自主的労働者階級の原理は、ブルードンからの古い考えであって、あまりにもしばしば忘れられているのだが、そのフランスの労働者への影響は、すくなくと もカール・マルクスのそれに匹敵するものなのである

 一九四七年、当時五百八十万の参加者を数えたCGTの新たな分裂によって、事態は複雑化する。反スターリン主義、社会民主主義、さらにはトロツキスト、 アナーキスト、その他の分派がFOを結成したのである。この時期、<アナーキスト連盟>のメンバーの大部分はFOに加わることを選んだ。それが、その間一 九四六年に、スペインのアナルコ・サンディカリズムの亡命者の協力を得て、ピエール・ベナールのCGT-SRの後継者のー部によって創設されていたフラン スCNTの発展に、手痛い打撃をもたらした。

 FOに好意的だったこの選択は、労働者階級により近いところで、スターリン主義者には反対の大衆組織にとどまりたいという願望に動かされていた。当時、 CFTC(<フランス・キリスト教労働者.同盟>)は、まだ非宗教化されたCFDTとなってはおらず、さして重きをなしていなかった。一九九六年に照らし て見れば、この選択が最終的には間違っていたのではないかと考えるアナーキストの数はしだいに増えている。しかし歴史をあとから考えなおすのはつねに容易 である。FOの化学や設備などのいくつかの部門、あるいはナントなどのいくつかの地区は、いまだにかなりアナルコ・サンディカリストの影響を受けている。 ともに宗教色のない社会党系の、アンドレ・ベルジュロンとその現在の後任者マルク・ブロンデルとのFO書記長への選出は、より組合協調主義的で政治的に中 立とはいえぬと判断されたどのような候補者にも反対する、アナルコ・サンディカリストの暗黙の戦術的な合意に負うところが大きい。

 それでもやはり、そのー部がスペインからの亡命者であるセネティスト(=CNTのメンバー)は、ときには裏切りと見なされるこの選択について<アナーキ スト連盟>をひどく恨んできた。FAでは世代がほとんど全面的に入れ替わり、一九四七年のメンバーがほとんど残っていないとはいえ、一部のものはなおそう なのである。この過去は部分的には、現在のある種の緊張関係を説明してくれるだろう。

 けれどもまた戦略をめぐってもいくつかの食い違いはあり、CNTの選択は連盟のおおくのアナーキストによって両義的だと判断されている。CNTは実際の ところ、みずからを政治組織や結社とは考えず、組合だとしている。だからCNTはしばしば他の改良主義的組合と行進をすることを選び、ときには、リヨンで のように、いつでもどこででもというわけではないが(パリにおける反対例もある)、アナーキストの隊列に加わることを拒否する。CNTはアナーキストの レッテルをあまり好まないが、それは戦術的な配慮──イデオロギーのこちら側によりおおくの人々を結集すること──によるばかりではなく、戦略的な定義に もよっている。指導原理のなかで階級闘争、反国家主義、反議会主義、反軍国主義に言及するCNTは、たとえ「絶対自由主義的倫理」を援用し、絶対自由主義 的共産主義を窮極目的だと断言しようと、その規約のなかではっきりとアナーキズムに準拠してはいないのだ。こうした幅広い取り組みは、「純粋な」革命主義 的サンディカリスト、絶対自由主義的マルクス主義者ばかりか、革命主義的マルクス主義者やエコロジストなど、アナーキズムを特定して援用するわけではない 個人やグループの加入を可能にしている。「純粋な」革命主義的サンディカリストは、彼らが組合を手段であり目的でもあると捉え、革命的社会再編成のなかで はコミューンを除外し、アナーキストと特定きれる組織にどのような社会的・労働者的有用性をも否定するかぎりにおいて、厳密な意味でのアナルコ・サンディ カリストとは区別される。アナルコ・サンディカリストの方は、社会計画としても現在の組織としてさえもコミューンを忘れることはなく、したがって彼らは、 組合協調主義に偏向しかねぬ産業連盟を犠牲にして、さまざまな同業組合を集める地域連合に重要性を認めるのだ。彼らは当然のように、この場合<アナーキス ト連盟>のような特定の組織を敵視するわけではない。もっとも彼らのあいだでは、彼らがFAに認める位置や機能は多岐にわたっており、それは純粋にイデオ ロギー的・理論的役割から防衛と闘争の組織としての役割まで、揺れ動いているのである。

CNTは、長い低迷のあと、現在飛躍している。CNTが根づいているのは、パリの地下鉄の清掃部門、FNACオーディォ製品、スポーツ用品などを扱う大型 スーパーマーケットチェーン)、保健、郵便である。それは、『ル・コンバット・サンディカリスト』というタイトルをCGT・SRの機関誌から奪回した月刊 機関紙を持っている。その最高議決機関は大会であり、そこで各組合員が一票を持つ。官僚主義化を避けるため専従職員という考え方は否定されている。

軋轢がどのようなものであれ、二つの組織、FAとフランスCNTは、組織上厳密に別物である。イデオロギー上でも、実際上でも、この二 つの組織のあいだに、前衛と大衆組織とのあいだのレーニンのいう伝動ベルトという関係を想像することは絶対にできない。

アナキズムの課題


 とはいえ、分析と実践のこのような相違が活動家のミクロ社会の内部に空疎な論争しかもたらしていないと考えてはならないだろう。たしかにそうした側面がないわけではない。たしかに、アナーキズムとアナルコ・サンディカリズムはなおほとんど有効とはいえぬ力を表象しているのにすぎない。しかし現になされている選択は、フランス、さらに全世界の今後の進展にたいして決定的なものなのである。

 大部分の工業国と同様、フランスにおいても、社会は深刻な危機に見舞われている。三〇〇万人以上、すなわちー九九六年の労働人口のー三%という大規模な失業。期限つき雇用と転職の増加にともなう強度の不安定化。増大する社会的不平等(INSEE[国立統計経済研究所]によれば、月額八五〇〇フラン[約十八万円]という平均収人と同額かそれ以下の場合のものが二二九〇万人、すなわちフランス人口の半分近い)。多数の貧困層、ホームレス、それに住宅事情のきわめて悪い二〇〇万人。外国人排斥と極右のもたらす人種差別の横行による極度の緊張。ますます暴力的になる社会関係。とりわけ若年層に見られる、自殺の大幅な増加。絶対自由主義的精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒ(1897-1957)の表現を借りれば、「感情のベスト」をサッカーのスタジアムやロック・コンサートで昂進させている、ますます弛緩していく社会関係。そうした傾向は、個人あるいは家庭を完全に核化するテレビのチャンネルの発達によって強化される一方である。

 しかし、全体として、労働者階級──生産手段の所有者ではないとはいえ物質的生産(工業、農業)ばかりか再生産(サービス、輸送、教育、文化…)をも保証する階級──は、フランスでも世界でも後退してはいない。数字上も、社会的にも。そのかわり、国籍、価値、身分の相違によって、より分散させられ、より細分化されている。所得競争にかりたてられた彼らは、議会主義と当選第一主義によって不具にされ、組合家族主義によって飼い慣らされ、官僚主義によって衰弱させられ、組合協調主義とナショナリズムによって分割されてしまった。世界じゅういたるところでこうした分裂を操っている、自由主義的だとはいえ国家中心の資本主義により支配された社会において、マルクス主義の計画と組織の取り返しのつかぬ破産のあと、課題はなみはずれたものとなっているのだ。

 アナーキストにとって労働者階級に訴えるというのは、仕事を持つ人々ばかりでなく持たない人々や失おうとしている人々にも訴えることである。それは、もはやー連の(ネットワークによる)遠隔労働や下請けや社屋の分散によりしだいに解体していく企業ばかりではなく、それとはべつの場所のまわりに、人々を組織し統一することができることを示すことなのだ。それは社会的絆と連帯とを再構成するのが可能だということである。そうした絆、連帯とは、労働界におけるアナーキズムの疲れを知らぬ活動家、フェルナン・ベルティエが、旧CGTのうちに設置されるまえの十九世紀末、労働者の図書館、労働者のサークル、労働者の超経済的活動を想像し創設したような、コミューンや労働者取引所である。
 課題はまた、必要なさまざまな連帯を結びあわせ、ブルジョアジーの組織する競争関係を打破するため、国際的なレベルにもある。CNTは、一九二三年にベルリンで設立され、第一インターナショナルの反権威主義的流れを汲むAIT、<国際労働者連合>への献身を保証している。FAはといえば、一九九七年秋にリヨンにおいてIFA(<アナーキスト連盟インターナショナル>)の次期太会を組織する予定だ。隣人たるFAI (<イタリア・アナーキスト連盟>)とともに、たとえばー九九五年秋のフランスの社会運動を報告するためイタリアで共同して組織したー九九六年二月の講演旅行があきらかにしているように、基本的共同作業を展開している。

 しかしアナーキスト自身、社会において充分に何かを代表し、みずからのユートピア計画を信頼されうるものであるとともに存続しうるものとしているであろうか。<アナーキスト連盟>を例にとれば、その活動家が余計者や甘い夢想家からほど遠いことはだれでも納得するだろう。女性も男性もほぼ同数である。すべての年齢層が代表されているが、それよりいささか重要なものとして、学生、若いプロレタリア、あるいはすでに失業中の二十歳前後の男女と、団体や組合での活動経験のある三十代と四十代の男性という二つの区分がある。金属労働者、鉄道員、植字工、教員、看護士その他が<連盟>では隣りあわせている。おおくの場合、連盟のアナーキスト活動家が、その分野、とりわけ技術系の分野情報処理、植字、印刷、数学、社会科学…)でかなり突出した専門家であることにさえ気づかされる。社会学的な内部調査ともいえるいくつものアンケート、とりわけ一九九四年に『ル・モンド・リベルテール』紙の実施した読者調査は、そういう場合に見られる慎重さにもかかわらず、アナーキストやその同調者が団体や組合の運動、同調者にとってはとくにCGT、また社会の様々な部門に深く根をおろしていることを立証している。

もうひとつの未来の課題


 CNTと同様ヘアナーキスト連盟>の内部でも、諸課題の重要性が強く感じられながらも、進むべき方向についてときおりためらっていることはあきらかである。それが最初に明確化したと思われるのは、一九九六年六月のリヨンでのG7反対デモのときであって、そのときFAとCNTは、うわべだけだが自殺的な暴力行為に飢え、警察が浸透しやすく、ともかくあらゆるところで、それ以前よりもさらに権威主義的国家を組織する力を証明してくれた民族解放運動を支持する、ドイツ式「自主派」アウトノミアタイプの、ムーヴマンティストか急進派の諸党派と手を結ぶことを拒否したのだった。

 この側面についてもうすこしつけ加えると、最大の人数を最大の公分母のうえに集めるという、短期間なら時には有効だが、矛盾と対立を生みださずにはおかぬ「共同戦線」的戦術は、しだいに行き詰まりが感じられるのである。それは、社会党と共産党の左翼も極左派も、真摯な反ファシストとアナーキストの背に乗ってファシズムの危険を人工的に増大させることはしないまでも、一方は政治の純潔を回復するため、他方は党勢を拡大するため、反ファシズムの大共同戦線しか夢見ていないだけになおさらなのだ。

 CNTの内部において、職業的選挙に参加するかそれを拒否するかについて激しい議論が巻き起こり、多少の保守を含む「賛成」派(いわゆるヴィニョールCNT)と、南西部におけるより多数の「反対」派(CNT-AIT)とのあいだの組織的な分裂を生みだした。

 このような状況は客観的に見てフランスにおけるアナーキズムの発展には好ましいものである。一九八一年のミッテランの最初の大統領選挙のときの希望が大きく、他方社会党の現状がとりわけ深刻なものとなっているだけに、ミッテラン時代の社会主義への幻滅は大きい。失業の増加、ピエール・ベレゴヴォア首相の断行した失業手当の削減以来の「新しい貧困層」の出現、安全保障重視の政策、汚染血液事件に見られるような、廉直で知られる幹部をまきこむさまざまなスキャンダル、偽造請求書、そして傲慢さを競いあう「左派=キャビア」と「右派=カシミア」。社会党との協力をなかなか忘れさせられぬ共産党は、なお急進的な下部の力で修復をはかる。それに代わるかと思われていたエコロジストについていえば、よくいって資本主義の開明的管理方式、悪くいえば、政界に乗りだす新しい絶好の機会と見なされている。

 アナーキズム運動のなかで、あるものは、ソヴィエト連邦の再編成と大学や組合などさまざまな場所でのマルクス主義の退潮とが自分たちに自然に道を開いてくれるだろうと考えていた。最近のー連の出来事は裂け目が実際に口をあけ、しかもそれでもまだ充分でないことを示している。アナーキストは、いままでになく信頼をよせられ、そこでー部のものがときおり自足するのを好み、右も左もあらゆる敵がそのままでいることを望んでいるようなフォークロアや余白から抜け出し、人類がついに鎖から解放される機会を得たいと望むなら、二十一世紀の夜明けにユートピア計画を磨きあげなければならない。

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L’autre assaut du Capitole, il y a 25 ans …

The other assault on the Capitol 25 years ago …

連帯
(Solidareco, Solidarité, Solidarity, Solidaridad)

アナルコ・サンディカリストの行動綱領


http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/french.html

この項では、今日の資本主義世界における労働者運動の新たな展開に関する自治的労働運動・アナルコ・サンディカリストの分析を紹介したい。新たな段階への移行局面にある現代資本主義について、またその中での社会闘争を進める上で、参考になるだろう。

PDF[パンフレット] : フランスにおけるストライキ 1995.11-12 (Echange グループによる 

上記パンフレットから :

2001.2.24


  以下に「交流と運動」の基本文書を、95年フランス公務員ストの記録を扱った我々のパンフレット『ストライキの季節 夢見る日々』(1996.5.20刊)よりhtml形式で抜き出しておく。また、アンリ・シモン氏来日(1998年7月)のおり、交流会で配布した簡単な紹介文書もあわせて掲載することにする。なお、 その後インターネットの大衆化で、様々な文書がネット上で読めるようになった。気がついた範囲で、ネット上に配布されているものはそのリンク先を埋め込んでおいた。
 また「Echanges et Mouvement」誌は、現在も季刊ペースで仏語オリジナル版が刊行中であり(英語版はとどこおっているが)、最近の号には我々のパンフ『自由共産主義の青春』が紹介されていた。残念ながら、インターネット上のサイトは開設されていないが、上記リンク先にパンフレットや文書が収集されているので、参照されたい。


1.アンリ・シモン氏略歴 (1998)
2.「交流と運動」とは何か (1990年頃)
3.新しい運動 (1974)




1.アンリ・シモンの経歴

 1922年、パリ南東50Kmのムランで生まれる(父、大工職人、母、小学校教師)。通信教育で法学士号を取得し、保険会社の職員になる。そこで労働運動に参加する。
 1952年、「社会主義か野蛮か」グループに加盟。そこで政治的に多くを学ぶ。グループ内では、さまざまな形でマルクス主義の内部批判が進められるが、そのテーマの一つ 、組織、特に革命組織のあり方をめぐって、グループ創立者である二人、カストリアディスとルフォールの間で対立が続いていた。カストリアディスには前衛主義の名残がある、とするルフォールの側に、シモンは立つ。
 1958年11月、ルフォール、シモンら少数派は、グループを離脱して「労働者情報通信」ICOグループを発足させる。「すべての手段を通じて闘争の自立を用意するための、分析と説明の仕事を」第一の任務とし、「経験を分かち合い援け合うことを望む労働者たち」の「一つの出会いの場」を作ろうとした。
 このグループは1973年までつづく。しかし68年5月ののち、秋以降、行き場を失った学生活動家たちがなだれこんできて、不毛な政治論議にふけるようになり、労働者たちの間での情報と意見の交換の場という本来の性格は消滅する。1973年、その状況に抗議してシモンはグループを離れ、間もなくグループ自体も自壊する。
 「労働者情報通信」の解体以後、1974年に入ってシモンらは、同傾向の人びとと国際的な労働運動のネットワークを作ることを計画、1975年から「交流と運動」を発足させ現在にいたっている。
 (「社会主義か野蛮か」グループの分裂と「労働者情報通信グループ」の発足については、江口幹『疎外から自治へ』 第4章、江口幹『パリ六八年五月』54~55頁、175~176頁、『ストライキの季節 夢見る日々』32頁以下、が参考になる)。
 シモンには、フランコ以後のスペイン、ポーランドにおける抵抗運動、イギリスの炭鉱スト、などについての著書があり、「社会主義か野蛮か」、「労働者情報通信」の両グループについての、貴重な証言も残している。

アンリ・シモンの基本的な立場

① 資本主義に対する闘争の中に、新しい傾向が現れている。それは、闘う人びとによる、彼ら自身による、彼ら自身のための、行動と思想の登場である。自律へのと呼びうるこの傾向は、生産現場のみならず、社会生活のあらゆる分野に見られるもので、社会関係の全体の転換に向かうものである。
② この自律の傾向は、資本主義世界の諸構造の全体、国家、政党、労働組合、伝統的グループ、搾取社会の思想と価値の全システムと衝突する。
 新しい運動は、あらゆる形のエリート主義、前衛主義と対立するし、あらゆる階級制を破壊しようとし、個人たち自身の間、個人たちと闘争諸組織の間、諸組織とそれ自身の間での、諸関係の新しい形を樹立しようとする。
③ したがって、二つの基本的な対立がある。一方での、資本とその諸機構との、他方での、公然と既成秩序と闘っているが、「革命的エリート」の観念を労働者たちに強制する、新しい諸機構を設立することを夢見ている人びととの、対立である。
④ 新しい運動は、他者たちの「解放」のためのものではなく、各自が、自分たち自身の利害のために、自分たち自身によって創造するものである。
 新しい運動の主要な特徴の一つは、自分たちの外部にいる人びと・グループ・制度に、闘う人びとがもはや期待をかけない、という態度の中に見られる。新しい傾向とは、自分が望んだことを、自分自身によって、自分自身のために行うことであり、要求し待つ代わりに、奪取すること、実行することである。そこに「闘争の中で、闘争によってはじまると思われる、自己・教育と自己組織化の過程」がある。
⑤ 新しい運動の概念そのものは、それ自身、革命過程の進展につれて変わりうるものであり、それは、絶えず変化しつつある実践である。

2.「交流と運動とは何か 「交流と運動」編 (1990年頃)

 これは、左翼急進派の間でグループという語に与えられている伝統的な意味では、グループではない。「交流」であるものにもっとも近い定義は、〝ネットワーク〟について語ることであろう。しかし、どんな人びとによって形成され、何によって結合しているネットワークなのか。
 「交流」の歴史のいくつかの点を見れば、現在の「交流」の立場をいっそうよく理解することができよう。「交流」のネットワークは、左翼急進派のさまざまなグループ出身の以下の活動家たちによって、1975年に形成された。
 ・「ソリダリティ」の元メンバーの一人(ジョー・ヤコブ)とまだ連絡をとっていた、イギリスのグループ「ソリダリティ」の何人か。ヤコブは、グループの多数派である〝カルダン〟(カストリアディス)路線に反対し、特に階級闘争の重要性に固執したために、グループから追放されていた。
 ・フランスのグループ「ICO」(労働者情報通信)の何人か。このグループは、階級闘争の性格と重要性についての同じ問題を提起した厄介な討論をめぐる、68年以後の逆流の中で消滅した。
 ・オランダの評議会共産主義者グループ「行動と思考」のメンバーたち。
 ・「リエゾン」(連携)誌を刊行している、ベルギーの小さな連絡グループ。
 これらのグループないし個人間の連絡は、いずれにせよ以前から長い間つづいていた。この核に結びついたのが、西欧各地に散らばっている他の多くの個人ないしグループである。彼らは、単に各グループの刊行物や手紙のやりとりだけではなく、かなり定期的な国際的な会合によっても結びついている。それらの会合の一つが、以上の活動家たちの共通の立場を表明した小冊子のための、思想と資料をもたらした。その小冊子『新しい運動』は、彼らの間のきずなである。彼らさまざまなグループや個人の間で何年にもわたって行われてきた交流を存続させつづけるため、各国における階級闘争や左翼急進派の諸グループの活動についての、最小限の情報を与える会報を定期的に刊行することが、決定された。この会報が『交流』であり、この決定の時期に存在していた接触によって、最初のネットワークが形成された。このネットワークは、資本主義社会の変化や階級闘争についての討論をはじめるか続行する便宜を、各自に提供した。
 

   会報『交流』は、どんなふうに、
    何のために作られているのか


 会報は、情報を受け取り、伝える手紙として考えられた。この計画を発足させた人びとは、ふつうは新グループの出現にともなうもの、彼らが共通のものとしているものの明確化について、あまり気にかけないことを決めていた。
 刊行する情報の内容や形式の基礎になっている基本的な立場についての暗黙の了解は、きわめて不明確なものだった。しかし計画が形式を決めるので、すでに説明したように参加者たちの出身がさまざまであるとしても、共通の扱い方が次第に姿をあらわしてきた。
 この共通の扱い方は、日常の階級闘争のさまざまな現象の分析の中で、それらを世界の全般的な理解の枠内におき直すことを通じて、表明された。以上の諸現象は、多くの人びとが反抗ないし拒否の個人的な形態と見なしたもの、事実上は共同の運動の一部であるもの(ずる休み、新規補充者数、労働拒否、等々)を含んでいた。このことは、必然的に既存の諸理論の批判に、つながっている。
 この路線を進めてゆくために、われわれは、諸紛争とそれに関連する諸理論についての、情報を持たねばならない。『交流』の中でわれわれが、ある事実ないし一まとまりの事実について異なった結論を時々引きだしているとしても、にもかかわらずわれわれは、それらの事実を物語る情報は、いくつかの基準に合致しなければならない、と考える。われわれが会報に掲載する情報を選択する時、以下の簡単な若干の原則がわれわれの指針となっている。
① 会報の存在理由を明らかにするのは、情報の公的な諸手段の不足である。すなわち、階級闘争についての情報の欠如、あまり重要性を与えられていない、政治的・経済的情報(現実を隠蔽する二つの方法)。
② そこから二つの任務が生まれる。すなわち、あらゆる種類の闘争の経験に関する諸情報の探索、政治的・経済的な大量のニュースの中での選択。
③ われわれは、今日の階級闘争の中に、あるいはそれらの紛争が将来とるであろう諸形態の中に、現れているすべてのものの間での、われわれの情報ないし分析の蒐集を制限する、先入見を持っていない。大事なのは、労働者たちが──自分の闘争を含めて──考えていることではなく、彼らがしていること、彼らの行動の実際の意味である。われわれは、それらの闘争について学ばねばならないし、それらと他の諸闘争との、また一つの全体としての資本主義の状況との、関係を探らねばならない、と考える。われわれは、こけおどかし・むなしい言葉・自己満足の宣言を用いること、労働者たちに「忠告」や「教訓」をふりまくことを、嫌悪する。われわれはそうした態度は、労働者たちの諸闘争を利用し支配しようとするエリート主義の刻印である、と見なしている。
④ 会報『交流』は、その名称が示しているように、一方向の情報手段以外のものであろうと、望んでいる。『交流』はむしろ共同書簡として考えられた。読者のそれぞれが、彼が他者にたいし期待しているものと引き換えに、彼の可能性や彼の必要にしたがってそこに彼の寄与をもたらしうる、共同書簡である。しかしながら、何年にもわたる経験のあとで、そのことを実現するためには、いくつかの伝統的な活動の形をのがれようとするだけでは十分でないことが、理解されうる。現在、意見や資料の交流、原稿の提供、実務の履行は、少数のものによってしか行われていない。しかし、当初の着想はつねに『交流』の目的の一つである。

   いくつかの基本的な原則

 ネットワーク、これはすべてのグループないし集団と同様に、それ特有の活動をし、その歩みが社会の歩みと結びついている、組織である。何人かの人びとは、さざまな理由からネットワークを離れたし、はじめの参加者たちとは違った姿勢の他の人びとが、新たに加わりもした。1980年に、われわれの間の何人かが、「交流」の共通の立場をもっと明確に表明する、文書を要求した。そのテーゼは果てしない討論となったが、それは「交流」の〝綱領〟とは見なされず、むしろつねに開かれた討論によって補われるか修正される何かしら、と見なされた。以下は、当初の文書ではなく、最近の討議にもとづくその一状態である。

①資本主義社会においては、実際の矛盾は、革命的、改良的、保守的、反動的等々の思想にではなく、利害にかかわっている。いかに決然たるものであっても、意志ないし欲求の結果によっては、商品の生産を覆すことはできないし、賃金制度を廃止することもできない。それらのことは、生産の資本主義体制の中での労働者たちの階級的立場において発生する、階級闘争の結果としてしか、起こりえない。
②きわめて広く流布されている意見は、〝革命的態度〟ないし〝労働者的行動〟として明確にされているものの基本的で必要な条件は、労働者たちの間での〝階級意識〟と〝統一〟の存在だ、と主張する。この観点は、行動と意識がいかに相互に影響し合うかについて、無知であるか、間違った形で考えている。労働者たちは、〝意識的〟であり、〝統一〟されているから、〝革命的階級〟として行動しているのではない。〝意識〟と〝統一〟は、闘争以前に存在しているものではなく、彼らの闘争の結果として、闘争の中で現れてくるものである。社会的闘争は、そこにかかわる人びとの考え方を変える。資本主義体制内部での彼らの立場は、彼らの利害の単なる擁護を、既存の秩序の諸利害の直接対決に導く。そうした闘争は絶えず起こるし、それらは潜在的に革命的である。
③変わりやすいあらゆる形態をともなう階級闘争の発展は、したがって、人がこの語に与える内容がどのようなものであれ、自称〝革命的グループないし運動〟の発展よりも、はるかに重要である。
④あらゆる形での搾取との、(〝改良主義〟等々の)あらゆる政治的思想ないし実践との、訣別は、理論的討論ないし意見の問題ではなく、階級闘争と労働者の実践の問題、彼らの搾取の日常的諸条件に直接的に由来する実践の問題である。
⑤労働組合は、資本主義社会の制度であり、労働力市場の調整の役割を果たす制度である。その役割を十全に成就しうるためには、一方で労働者たちとの利害と、つまり彼らの支持を保つ試みと、他方で資本の管理者たちの信頼や彼らへの何らかの効用を保つための資本の利害との、均衡をはからねばならない。しかし現代資本主義の発展は、労働市場の調整が、労働者たちへの抑圧的・規制的な役割を演ずるよう、労働組合に次第に頻繁に強いることを、徐々に明らかにした。
 労働組合を排斥しようとしてアッピールすることは、労働組合を支持するか改良するのと全く同様に、いかなる意味もない。労働組合が階級闘争の発展の中で、その発展とともに、どんな具体的で特有の役割を引き受けているかを見ることが、いっそう重要である。体制の中でのその役割ゆえに労働組合を支持している同じ下部の労働者たちが、社会秩序に反して行動するよう彼らの利害が彼らに強いる時、実践の中で労働組合に敵対する最初のものになる、という事実を人は肝に銘じなければならない。
  一般に、特に先進諸国においては、階級闘争の発展が労働組合の調停能力をいちじるしく減退させ、労働者たちが労働組合にじかに敵対する状況が生まれた、といいうる。この階級闘争の発展は、あらゆる労働組合に関する構想を完全に時代錯誤のものにした。
⑥いくつかの似た理由のために、議会主義の排斥ないし支持のためにアッピールをすることにも、いかなる意味もない。議会主義の運命は、資本主義体制の中での階級闘争にのみかかわっている。議会主義的な活動に参加しない、あるいは投票にいかないための〝自称〟〝革命家〟たちによって与えられる理由がどのようなものでありえようと、それらの理由は、投票にゆくことを拒否する労働者の理由からは、はるかに離れている。彼らが投票日に家にいるとしても、彼らは何らかの革命的展望の中でそうしているのではない。彼らは棄権する。議会や政治屋たちが彼らにいうべき何ものももはやもっていないからであり、いかなる政党も彼らの利害を擁護していないこと、そのことは政府の座にいるのが誰でもほとんど変わりがないこと、を彼らが理解したからである。反対に、議会主義的な何らかの幻想を抱いているから投票に出向いてゆく労働者たちも、全く同様に、完全に非合法な山猫ストライキや工場占拠にも参加するだろう。労働者たちの二つの種類、投票する人びとと投票しない人びとは、彼らの意見や選挙の際の態度とは無関係に、実際には同じやり方で行動するだろう。彼らは、議会についての革命理論を前進させることなく、彼らが現実にブルジョア秩序を攻撃していると意識することなく、そうするだろう。
⑦〝革命運動〟や〝革命的グループ〟と称するものは今日、次第に弱体化し細分化されているように見える。それらは、労働者たちが彼ら自身で彼ら自身のために行動しているので、弱体化している。次第に明らかになっているのは、労働者たちの行動手段や彼らの闘争方法は、労働者階級の外部や内部に意図的に作られた何らかの運動ないしグループによって、労働者たちに命じられたり教えられたりしていないこと、そうはできないこと、である。階級闘争は〝革命的な〟運動ないしグループとは無関係に存在しているし、発展している。したがって〝革命的グループの闘争への介入〟と呼ばれるものの水準と規模が、闘争の水準と規模を基本的に決定する、ないしそれらに影響することは、決してない。われわれは、そうした闘争に個人的にかかわることはできる。闘争にかかわる集団にわれわれが属しているか、個別の闘争のためにのみ作られた一時的な組織のどれかにわれわれが参加することによって。
  われわれは、それらの闘争の外にあって、情報と討論の交換、理論的説明の探求はわれわれの活動の主要な手段であり、この活動は時には他者たちに有益なものでありうる、と考えている。
⑧もしわれわれが、〝革命〟を、それは資本主義の転覆をはかるもの、といういい方以外の方法で特徴づけねばならないとするなら、われわれはたとえば、革命とは労働者の利益を〝代表し〟抑圧しようとするあらゆる種類の組織的実践と、労働者たちにイデオロギー的表現を与えようとするあらゆる試みの、衰退と消滅を意味する、といいえよう。そうした状況はまた、われわれが自律的な労働者的実践の全面化のその時の証人であることをも、意味する。
 

   「交流」の現在

 何かを獲得することにも、誰かを支配することにも、われわれは全く関心がないのと同様に、われわれは、実際以上にわれわれを見せるために、われわれの意図を隠さねばならぬことも、全くない。われわれは、数々の刊行物を書き、それらをいずれにせよ政治的な動機を持つ三百から五百の人びとに配布している、各地に分散している少数の活動家である。われわれの読者たちのうちに、確かに多くの労働者たちはいないし、彼らの多くは、この紹介の文書でのべた政治的な立場のどれか、あるいはいくつかと、確かに政治的に相容れないものがある。
 われわれは、多くのグループ同様に、全世界の闘争にかかわり、〝介入する〟〝国際組織〟であると称することができよう。われわれは、われわれの実状をあからさまにすることを恐れてはいない。先に強調したように、一グループは現在の社会の中での一状況の産物である。その運命は、それが発展するにせよ衰退するにせよ、単にわれわれの参加のあり方ないし活動の結果ではなく、階級闘争の発展の結果である。それとは別のものを、われわれをわれわれのみの〝革命的意志〟に結びつけることによって、作りだそうとすることは、われわれが階級闘争について考えていることと矛盾するだろうし、むしろ一貫していない。しばしば聞かされる批判は、われわれが階級闘争の〝観客〟だ、というものである。われわれがこれまでのべてきたことは、その主張とは相容れない。そこでわれわれは、階級的な敵対関係の発展に絶えずかかわっているか、そうでないかは、いささかも選択の問題ではない、と付け加えておこう。
 現在、「交流」の中でもっとも活動的なものたちは、ドイツ、フランス、イギリス、オランダ、イタリア、ノルウエー、アメリカにいる。彼らは彼ら自身、ベルギー、スペイン、フランス、イギリス、オランダ、イタリア、スカンジナヴィア、アメリカの個人ないしグループと、密接な連絡を保っている。………それらの連絡が、意見や行動手段の相違を排除していないのも事実だが。

3.新しい運動 (1974)


 現代的な、またさまざまな形で世界のすべての国家を覆っている資本主義的支配。この支配に対する諸闘争は、二十世紀初頭までのものとは完全に断絶し、新しい諸傾向を示している。
 それらの傾向の共通で主要な特徴は、闘う人びとによる、彼ら自身による、彼ら自身のための、彼らの生活のあらゆる状況の中での、行動の領域でとともに思想の領域における、彼ら固有の利害全体の把握である。
 社会的諸関係の根底的な転換でありうる以上の諸特徴は、資本主義自身の諸変動の中に、その数々の危機とその数々の適応の試みの中に、はっきりと現れている。それらの特徴は、孤立した、支配的な利害によって急速に打破される、爆発の中に立ち現れるか、諸改革によって多かれ少なかれ抑制されているゆっくりした歩みの中に示されるか、している。
 そのことは、あらゆる国の中でも、人間の活動のあらゆる領域でも、個人たちの段階においても、個人たちがかかわり合っているあらゆる集団の段階においても、多かれ少なかれ確認されうる。資本─企業─による人間たちの搾取の現場そのものでの闘争は、依然として重要である。しかし以上の諸傾向の現れは、あらゆる領域で、類似の形で、見出される。社会的な諸対立は、社会生活のあらゆる分野に拡がっているし、自律は限界を知らないこと、すべてを転覆させるであろうことを、示している。
 あらゆる疎外された労働の、したがって搾取の終わり、人間の人間へのあらゆる支配の終わりは、社会関係の全体を転換させるであろう。このことが事実なら、あらゆる領域における諸闘争が、同時に、それらが展開されるその時に、社会的な諸関係の総体を転覆させるであろう。
 自律の諸傾向と、それらがともなう、開放的か伝播的な、独創的な諸形態は、資本主義世界の諸構造の全体、国家、政党、労働組合、伝統的グループ、搾取社会の思想と価値の全システムと衝突する。そこから、個人にとっても彼が属する社会的な諸グループにとっても、絶えざる紛争が生まれる。この諸紛争から、新しい運動のさまざまな現れはあらゆる形のエリート主義、前衛主義に対立する、という結論が引きだされうる。すなわち、それらの現れは、あらゆる階級制を破壊しようとし、個人たち自身の間、個人たちと闘争諸組織の間、諸組織それ自身の間での、諸関係の新しい形を樹立しようとする。
 それらの闘争、それらの傾向は、過去のいくつかの闘争と傾向に結びついている。たとえば、社会的な諸闘争がそこで体制の基盤そのものを危うくしかけたあらゆる時期における、労働者評議会ないし類似の組織の出現に、結びついている。それらの事実についての研究と考察は、現在についてのわれわれの知識の一要素である。しかしわれわれは、そうした情報、分析、理論化の活動が、模範を決定しうるはずである、とは考えない。一つの闘争から生ずるものは、その闘争の必要性に応じたものであり、したがって他の闘争のための目的、ないし他の闘争から生ずるものを判断する基準としては、役立ちえない。
 新しい世界の諸要素は、資本主義体制の働きから永久的に自由であろうとする。それらの要素は、あの働きの産物であると同時に、その働きに必要なものである。そうであるのは、たとえば現代資本主義や企業を機能させるのに、下部における個人的・集団的な創意の必要性がそうであるのと、同様である。あの働きから自由になる諸形態は、一時的な、束の間の、それらがそこで発展した当の社会の刻印を残したものでしかありえない。たとえばある分野の中での自発的な諸運動による大きな規模での機械の差し止め、激しいストライキ、労働への抵抗や、女性の状況の改善、地域の整備等々の運動のように。あれらの要素の存在を強調すること、それらの発展、それらの形態を分析すること、が重要である。革命の間近な到来を告げるものとして自律的な諸行動を賛美することは、むなしい。その諸行動を、それらの孤立が結局は体制の強化につながるという口実で、型通りに批判することも、またむなしい。それぞれのストライキに革命の典型を見るか、それらを〝改良主義的〟として告発する伝統的な諸グループの代わりに、もっとも急進的だと称する〝戦術的な〟闘争の諸形態を提案する、もっと抜け目のない諸グループもでてきてはいるが。
 賛美されるにせよ中傷されるにせよ、自律的な諸行動は、まれにしか新しい運動の最初の兆候とは見なされなかったし、その運動の組織は、闘争それ自身の中でしか出現することも発展することもできなかった。実際には、分析の試みは、それらの行動の失敗を、それらの〝組織の欠如〟によって、イデオロギー的な遅れ等々によって、説明しようとする。すべてこれらの批判は、革命的エリートによって決定された基準にもとづいて起きたことを判断する、古い、ないし伝統的な諸図式に、実際にはもとづいている。彼らエリートは、望む時に、さまざまな手段で、革命の中で中心的な役割を演じなければならないのであろう。彼らエリートは、労働者の革命の中で、まさしくブルジョアジーが彼らの時代にそうしたように、危機を告げ解放の道をさし示さねばならないのであろう。特異な大事件としてそれ自身考えられる革命は、あらゆる社会関係についての完全で急激な転換についての、魔術的な力を保持しているものと見なされている。すなわち、かなり暴力的な力が世界資本主義の支配の鎖の孤立した輪を崩壊させるであろう時期以降、すべては共産主義社会へと移行するはずであろう、というふうに。
新しい運動は、われわれが古い運動と呼ぶものと対立する。この古い運動は、十八世紀初めから二十世紀の初め、一九一四年の戦争の頃までの、諸図式と諸状況にもとづいている。第一次世界大戦まで、人びとはその時期に生じた諸思想や諸概念を、有効なものと考えることができた。しかし社会民主主義者、ボルシェヴィキ、サンジカリストの、党や組織の中で、この時期に革命的と見ることのできたものは、資本主義の形態の中での(自由な資本主義に代わる計画化された官僚的資本主義への)革命でしかなかったことが示された。
古い運動は、第一次世界大戦以来、以上のように改良された資本主義から生まれた諸状況に、次第に適合しなくなったように見える。新しい運動は、その最初の現れ以来、資本の支配のみならず、古い運動のさまざまな形態にも抵抗した。それらの形態が、たとえば一九一七年における工場評議会や、そのクロンシュタットにおける結末のような、革命的な幻想をなお含みえた時期にさえ。新しい運動は、前衛という言葉の下に総括しうるもの(党、グループ、等々)のみならず、革命という概念そのものを問題にする。古い運動は、資本主義的権力の現在の、ないし潜在的な保持者として、新しい運動のあらゆる現れに反対し、闘争を消滅させることしかできない。それを吸収するか、暴力で破壊するかして。
新しい運動の主要な特徴の一つは、闘う人びとの態度の中に、自分たちの外部にいる人びと〝グループ〟制度に──つまり家族の中の両親、夫婦の中の夫、学校ないし大学の中での教師、工場の中での雇用者、闘争の中での組合、行動ないし理論にとっての党ないしグループ、等々に──期待することを止めた人びとの態度の中に、現に見られる。闘争の形態はしばしば、要求事項の実践そのものであろうとする。新しい傾向は、自分が望んだ事柄を、自分自身によって、自分自身のために行うことであり、要求し待つ代わりに、奪取すること、実行すること、である。
 この傾向のもっとも顕著な現れは、階級闘争の形態と階級的紛争の拡大の中に、社会のあらゆる構造の中での支配するものと支配されるものとの対立のうちに、見られる。それらの対立は、その動機がどうであれ、労働者たちのために行動するすべての人びとと、搾取される人びと特有の行動との間の、断絶を示している。それらの特有の行動のさまざまな形態は、労働組合排除の試み、生徒・女性・同性愛者・労働を前にした労働者たち、等々の新しい態度の中に、自分たち自身のための自分たち自身による、当事者たちの闘争を表現するあらゆる態度の中に、見出すことができる。
 諸組織に不変のものの一つは、労働運動の典型と見なされ、諸組織の歴史によって労働運動の歴史を作ることにあった。新しい運動は、それ自身の歴史を発展させる。それは結局は、〝革命的〟行動のみの歴史を作ってきた人びとによって、これまで隠されてきた、労働者たち自身の運動の歴史にほかならない。
 旧式の運動は、新しい運動のさまざまな現れを、彼らの政治的な諸目的にそれらを従わせるためにしか、考慮にいれようとしない。一般に、問題なのは〝改良主義的〟、〝意識に欠けた〟、〝周辺的な〟等々のさまざまなレッテルによる最終判決である。しかし新しい運動の力は、旧式の運動の信徒たちに、彼らのものであるか彼らに与えられた役割の中で、どうにかこうにか踏みとどまろうとする上で、この上なくさまざまなアクロバットを強いるほどのものである。諸政党ないし諸組合の中での諸転換や諸紛争、さまざまな党やグループの現在の分裂は、闘争の諸運動の新しい性格に、基本的な立場を適応させようとする試みとして、しばしば説明されているし、諸運動を彼らのために押し曲げようとするものでもある。
 ある人びとは、資本主義世界が百五十年にわたって著しくは変わらなかったかのように、同じ諸図式を飽きもせずに繰り返している。しかし別の人びとは順応しようとしている。そこで、二つの流れが見られることになる。

①いくつかの個別の闘争に絶対的な価値を与えようとする人びと。そこで、若者、女性、学生、アウトサイダー等々の闘争を特別視する理論の花盛りが見られる。ある人びとは、労働の拒否と労働現場の破壊を、資本の破壊の唯一の徴候、前ぶれと見なす。他の人びとは、労働者階級という観念を工場プロレタリアートのみに限定しようとする。別の人びとはついに階級闘争が今も存在することを否定し、普遍的な同じ疎外の犠牲者である個人たちをしか、もはや見ようとしない。
②反対に、あらゆる個別主義を排し、全体的な説明の試みを守りつづける人びと。彼らは、用語と理論を現代化し、資本と階級闘争の変化に多かれ少なかれ同化している。しかし同時に、活動の、闘争の、あらゆる領域での自律という基本的な特徴を新しい運動に認めることを、説明なしに拒否している。

  それらの試みは全く取るに足らないものではない。というのもそれらは、時には自律の新しい現れの意味を明らかにし、資本主義社会の中での自律の曖昧さと限界とを強調するのに、役立つからである。しかしグループのあれらの理論、思想、行動の重要性は、〝革命的前衛〟のゲットーだけの熱心な論争によって、過度に誇張されている。それらの論争自身、またそこから生まれてくる思想も、それらの当事者たちがそれらについて何を考えていようと、資本の社会の中で発展しているすべてのように、支配階級自身によって回収されている。すなわち、前衛自身は、旧式の運動の既存の諸構造が結局は横取りしてしまう、イデオロギーを練り上げるるつぼに、ついにはなるのである。
 諸闘争の中で、あの現代化された前衛の介入は、同じ状況に導かれる。彼らの自負は、あらゆる領域での諸闘争に多くをもたらす、というものである。しかし事実においては、彼らが考えているものとは全く違った形で推移する。時には、彼らが自分たちの政治目的の道具にしようとしている人びとが、状況を好転させ、当事者たちの熱意を彼ら自身の闘争の道具に変える。時には、反対に、またより多くの場合、あの介入は闘争の自律的発展を妨げるのに成功する。そこではまた、彼らが乗り越えようとしていた政党や組合が、はじめは彼らが寄与しうると見ていたあの自律を、方向づけ抑圧するのに、彼らの介入を役立てているのである。
 行動や理論の面でのあらゆるグループの対立がどうであれ、彼らが激しく中傷し合っているとしても、彼らはみな一つの基本的な特徴を持っている。すなわち彼らは、闘っている人びとに、おかれている状況の全体を自分たち自身で、自分たち自身のために調整する可能性(行動、組織、目的、戦術、反省、展望)を、まかせることを拒否するのである。止むをえなければ彼らは、闘っている人びとに行動と組織の中での決定を認める。しかし〝その人びとの闘争の意識〟や、まして理論や展望は、拒否する。したがって彼らは、行動自身に対してある思考の形式の優位に同意している。政治的思想と反省の専門家たちがそうして、行動と思想を分離しえないとしている人びとよりも、階級的に上位に立つことになる。行動と思想の不分離は、おかれている社会的集団の中での、社会的支配に対する闘争の過程にあるすべての人びとのまさしく特性なのに。よく見られるのは、あらかじめ専門家たちによって判断された〝社会主義的な、革命的な方向〟に進むものである場合にのみ、闘争の自律を認める、多くのグループがあることである。
 新しい運動は、何人かの人たちが、彼らがいかに数多く、組織され、構成され、〝首尾一貫〟していようと、他者たちの〝解放〟のために構築しうるか考えうるもの、ではない。それは、各自あるいは全員が、自分たち自身の利害のために、自分たち自身によって創造するものである。個別主義の乗り越え、諸要求の統一、より全般的で基本的な諸問題の中での彼らの自己の乗り越え、闘争の展望、これらすべては、与えられた時期における、闘争それ自身の所産でしかない。諸労働組合は統一について、諸グループは戦線、委員会等々について、つねに語っている。行動の自律が表明されるすべてのストライキにおいては、誰もそれらについて語らない。なぜなら闘争は、前進しつつある全労働者たちの行為だからである。
 自律的な運動の出現は、党の観念を変化させた。かつての〝指導〟党は、自らを〝革命的前衛〟と定義づけ、自らをプロレタリアートと同一視していた。この〝プロレタリアートの意識的分派〟は、階級として形成されるプロレタリアたちの基本的な指標、〝階級意識〟を高めるために決定的な役割を果たさねばならなかった。党の現代の相続人たちは、そうした立場を維持することのむつかしさを、よく理解している。またある党やグループは、彼らが労働者たちの欠如と見なすものを補うために、きわめて限定された〝使命〟を果たそうとする。そこに、介入、連携、例示的行動、理論的説明、等々の中での専門的なグループの発展が由来する。しかしそれらのグループでさえ、闘争の運動の中での専門家たちの階級的な役割を、より以上に果たすことはできない。新しい運動、闘いつつある労働者たちの運動は、それらすべての人びとを、古いグループでも新しいグループでも、自分たち自身の行動との完全な平等のうちに見る。運動は、現にあるものから取り入れることができるものは入手するし、自分たちに適していないものは排除する。理論と実践はもはや、革命的過程の唯一の同じ要素としか思われない。どちらもどちらかに先行したり、どちらかを支配したりすることはできない。いかなる政治的グループも、したがって果たすべき重要な役割を持たない。
 革命は一つの過程であるこの過程について、われわれが指摘しえたのは、その数々の最初の現れである。誰も、その持続期間、そのリズム、それがとるであろう諸形態を、語ることはできない。あれらの現れは不可避的に激しいものになるであろう。なぜなら、いかなる階級も最後の力を振りしぼって抵抗することなしに、奪いとられるままではいないだろうからである。しかしこの戦いは、その果てに資本の軍隊の崩壊と〝革命的諸機構〟の定着が見られるであろう、整然とした戦いではないであろう。場所も領域も形態も予測することはできないであろう、たぶんその唐突さにおいてもその性格においても驚くべき、一連の出来事すべてが、地球のあらゆる地点でのすべての社会的諸機構に手を加えることであろう。それらの出来事のどれも、期待されていた急激な全般的な断絶を、形成しはしないだろう。どれもが、ほかの数々の出来事と明白な直接の関係を持ちえないであろう、ほかのものたちの中での一要素でしかないであろう。今日においては誰も、ロシア革命、スペイン革命、東の諸国(ハンガリー、ポーランド)での反抗、フランスにおける六八年五月が、革命の典型であったと主張はできない。しかしながら、それらの出来事のそれぞれが、資本と革命過程の変化を顕著に示した。今日もし世界を見てみるなら、言葉のジャコバン的意味での革命は次第に背景に追いやられている、しかし革命過程そのものは次第に強力になっている、といいうる。
 唯一の出来事の中での革命というあの思想は、直接的な対決による国家の征服ないし破壊についての、旧式のマルクス主義やアナキズムの諸理論のみならず、多かれ少なかれそれらの理論を現代化した数々の代用品すべてにも、つきまとっている。旧式の運動は、(さまざまなレーニン主義的、ネオ・アナキズム的な)旧式の公式の助けを借りたり、新しい公式(アウトサイダーたち、さまざまな委員会、コミューン)にもとづいたり、理論的・実践的な〝要請〟の名の下での新しいエリート主義の主唱者になったりしながら、適切な組織を作ろうとして、器用さの数々や途方もない努力を繰り広げている。
 平行して、闘争や状況のままに、限定した任務を引受ける諸組織が発展しており、それらは分裂したり、よそで再組織されたりしている。諸組織はしばしば曖昧な性格を示しており、闘う人びとの代わりになろうとする、前衛主義を欠いてはいない諸グループのメンバーによって、しばしば推進されている。しかし次第に諸組織の存在も、闘争と緊密に結びついてきている。諸組織は闘っている人びとの利害を表現し、それらの人びとの制御の下におかれなくてはならない。彼らに闘争を持続させるためだろうと、彼らに別の路線を与えるためだろうと、彼らをある政治組織に改めて結びつけるためだろうと、それらの試みのすべては、同じ数だけの失敗となるし、しばしば彼らの死をもたらす。
 次第に、自分たち特有の利害のために闘いつつある個人たちは、闘争の過程で生じてくるすべての任務(調整、情報、連携等々……)を、自分たち自身で引受けようとする傾向にある。彼らが自分たち自身でそれができるほど強力ではないと感じている限りで、彼らは、彼らに近づいてくる組織、労働組合、〝左翼急進主義者たち〟、さまざまなグループ……を頼りにする。それらの介入と提携は、自律を発展させるとともに制約する。それらは、それらがあらゆる種類の開放性と連携を増大させ、そうしたものを自分たちの既成の合法的諸機構に対する闘争の中で利用する人びとに、信頼を与える限りで自律を発展させる。それらは、それらが(組合や党の)機構や思想の諸潮流の中に、闘争を引き戻し、過去を参照にしたイデオロギーにもとづいて、未来に向けた行動(とそれにともなう想像力)を妨げる限りで、自律を制約する。
 したがって、二つの基本的な対立があるといえる。一方での、資本とその諸機構との、他方での、公然と既成秩序と闘っているが、〝革命的エリート〟の観念を労働者たちに強制する、新しい諸機構を設立することを夢見ている人びととの、対立である。したがって、さまざまな回路を通じての、きわめて変化に富む、多様な、恒常的なものでもあり一時的なものでもある、熱意の獲得によって強力な、想像もできない力によって物質的な手段を更新する、水平的な連携の巨大なネットワークが形成される。ある人びとや別の人びとの弱点や強味を妥協することなしにむきだしにする、思想や理論の絶大な攪拌が行われる。それは、その形態と帰結を予測することができない、闘争の中で・闘争によってはじまると思われる、自己・教育と自己組織化の過程である。
 ある人びとはこの力と思想の新しい沸騰の中で、革命家たちの新しい運動の、新しい党の、誕生が認められると信じている。彼らは、以上の傾向を利用して、組織や党の古い理論を、あるいは直接行動と少数者の理論を、若返らせようとしている。
 しかしながら、新しい運動はそれらの否定そのものである。その証拠の一つは、新しさを表明している人びとの行動と思想の無数の路線を唯一のイデオロギーで包含しようとする、あらゆる試みが、具体的に不可能なことである。拡散しているが回収はされていないあの〝前衛〟を、新しい運動の数々の現れの中に再結集しようとする誘惑は、それ自身、当事者であると自任している人びとすべての思想に似ている。あれらの現れは、その〝革命的エリート〟の強味と弱さとを示している。強味というのは、伝統的諸政党に比べれば彼らは多数だと思われるし、いくつかの闘争の中で無視できない役割を果たしうるからである。弱さというのは、彼らはそのエリート主義のゆえに、自分たちへの力の信仰によって、弱小グループのあらゆる操作と、彼らが搾取される人びと自身の行動に代わりうるという幻想を、容認しているからである。以上すべての背後に、他者たちのために革命をなしうるという思想が、改めて見出される。
 われわれがすでに強調したように、新しい運動の存在を証明する闘争の新しい諸形態は、ある時期の闘争の状況そのものによって形成される一時的な諸形態であり、資本は、闘争を開始させた危機を乗り越えようとするその企ての中で、現実が生じさせたものを自分の責任で調整しようとする。資本のそうした企ては、支配の諸機構のもっとも活動的な一部、搾取されている人びとを取り囲んでいる一部、企業、組合、政党等々から不可避的に生ずる。(どんなものだろうと)国家権力の法令によって設立される自治管理は、資本の支配機構を調整しようとする数々の企ての中の一つでしかない。あらゆる調整と同様にそれらの調整も、闘争の新しい諸形態を生みだし、新しい解放闘争を発展させることしかない。闘争の真の自律と、その(十分なものでは決してない)取り込みを混同しているすべての人びとは、〝自治管理のワナ〟にはめられないように、等々の口実の下に、彼らの〝理論的学識〟を労働者たちにおしつけつつ、闘争の弁証法を否定しようとする。実際には、闘っている人びとは、新しい諸グループの大半のイデオローグたちよりも、自分たちの実践の中で、自分たち自身の利害が必要とした自律と、資本の利害の必要による統合の企てを、見分けることができる。
 闘争の中で起きていることが、以上すべての意図をすぐに論破する。新しい運動の特徴の一つ、搾取されている人びと自身の特徴、それは、新しい運動であろうとする人びと──少数者、革命的エリート──の野望を縮小させ、闘う人びとが割り当てる役割を彼らに果たさせることである。〝革命的グループ〟の存在と役割は、根底的に変わった。普遍性への自負は、多くのものの中の一経験の一要素に縮減された。あらゆる理論化は、全体の一部でしかなく、そんなものとして把握されている。少なくとも、諸闘争と同様に重要であり、諸闘争の進展と緊密に結びついているのは、資本とそれにかかわる諸機構の伝統的な諸価値を前にしての、態度、気持の持ち方の転換である。この転換は、革命的過程の重要な部分である。
 諸行為による批判は、組織についての概念を含めて、理論のすべての様相にかかわっている。人が自分自身を捧げる政治参加は、資本主義社会の中での社会的諸関係について彼自身が持つ経験によって、まず動機づけられている。この経験、それについての反省、そこから引きだされる諸結論は、あれほど広い、あれほど深くあれほど知られていない相互的な諸関係を持つ、絶えず変化しつつある、一世界の中での、個別的な一様相以外では決してない。誰も、自分のものとは別の真実を持っている、と主張することはできないし、このことは彼を他のすべての人びとと同じ平面におく。
 共同の反省や行動のために人が他者たちと合流する時でさえ、各自はまず自分自身のためにしか行動しない。グループの反省と行動は、どんなものであれ他の類似のグループの反省と行動以上の価値を持たない。グループが自らに与える〝任務〟がどんなものだろうと、グループの介入や思想の普及の度合いがどうであろうと、それによって他の類似の諸グループや、新しい運動の中に現れるような運動の組織よりも、上位に立つことはできない。
 そのようなグループないし組織は、さまざまな形の下で、さまざまな意図をもって、つねに存在してきた。現在のそれらの増殖は、顕著な事実であり、諸グループのそれぞれが、それを形成している人びとに特有の諸状況にもとづいて発展していることを、示している。以上いろいろのべたのは、今ふれたようなグループにとっての活動の一般的方向でありうるであろうものを、明らかにすること、これまで粗描してきたような新しい運動に関連して明確化すること、を目指しているからである。この文書でわれわれがとりあげてきたような新しい運動の概念そのものは、それ自身、革命過程の進展につれて変わりうるものである。新しい運動は、不動の絶対ではなく、われわれが未来を予測することのできない、絶えず変化しつつある実践なのである。



 



 


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