最近の社会闘争におけるアナキスト [1996]

一九九〇年代の初めから、アナーキズム運動はフランスでまぎれ もない状況の好転を見ている。いくつかの鍵となる日づけがこの躍進の目印となる。一九九一年の湾岸戦争への反対、一九九四年のCI P( 就 職 契 約)案への反対運動、一九九五年秋の社会運動、一九九六年六月のリヨンにおけるG7サミットへの反対デモ、そしてー九九六年 夏のローマ教卓ヨハネHパウロ二世来仏への反対である。

最近の社会闘争におけるアナーキスト達



それまで、アナーキズム運動は、多少ともミッテラン主義に系列化された極左グループやエコロジストとは反対に、ミッテラン政権下二十年の闘争による出血にも屈することのない、市民社会の数少い構成要素のひとつであって、わずかながらだが拡大さえしていた。

 湾岸戦争のとき、フランス国民のすくなからぬ部分は戦争という考えそのものに反感を示し、アメリカのテレビ局CNNに支配されたメディアの宣伝を拒絶し、外交政策をとおして、シラク=ミッテランの有名な「保革共存」(コアビタシオン)政策を弾劾した。ときの国防大臣は、平和主義者として評判の社会党左派のリーダー、ジャン=ピエール・シュヴェヌマンにほかならない。そこでコミュニストからアナーキストまで、おおよそ社会民主主義の「左」に位置するすべての政治的感性が華々しく動員されたのだ。

 しかし、ジャン=マリー・ル・ベンの極右政党<国民戦線>が、外国人排斥の組織であったにもかかわらずアラブのバース党のナショナリズムを支持して戦争に反対し、また極左の諸組織が、公言しないものの、反米的な第三世界主義の名のもとにイラクを支持したとき、アナーキストだけはアメリカの帝国主義とイラクの独裁のどちらをも退けたのであった。この立場は特定の人々の賛同をえた。

 <アナーキスト連盟>は、「晴れた湾岸沿いにゆらめいて見える戦争は銀色に反射している」と題したビラをまいたが、これは、シャルル・トレネの有名なシャンソンのうちでもとくに万人によく知られているある曲の一節のパロディである。語の遊びで海の波の「銀」色(アルジヤン)は資本と石油の「 金」(アルジヤン)を指しており、「湾岸」は当然ペルシャ湾のことなのだ。込められたメッセー.ジはすぐ理解され、このビラは大成功をおさめた。

 一九九四年にバラデュール政権によって検討されたCIP案はおおくの若者を目覚めさせ、彼らは安上りの未来をあてがわれるのを拒絶した。自分の最初の仕事の報酬が、見習い期間中とはいえ、同じ資格の通常のサラリーマンの給料より二〇から二五%安く見積もられているという考えそのものが、彼らには許し難いものに思われた。CIP反対のー連の大規模なデモのなかでアナキストの隊列は、湾岸戦争のあいだ以上に大きかった。アナーキストの発言は大会のあいだしばしば聞かれ、政治や運動と接触をもつ若者の新しい層を魅了した。そうした発言は大学生よりも職業高校(LEP)の若者のあいだに反響を呼び、彼らはこの機会に自分たちのすばらしい組織化の能力を示したのだ。この反CIP運動におけるアナーキストの象徴は、アナルコ・サンディカリストである、フランスCNTの若い活動家が交渉の席上、大臣との握手を拒んだことだろう。彼に言わせれば、そうすることを波は委任されていなかったからなのである。

一九九五年秋の転機


 一九九五年秋の「十一~十二月運動」とも呼ばれる大規模な権利要求運動は、フランスの労働者階級の、あるものにいわせれば目覚めであり、他のものにいわせれば白鳥の歌であった。それは二ヵ月近くにわたる公共部門、とりわけSNCF(フランス国有鉄道)の労働者、そして郵便局員、ガス・電気会社員、教員……などによるストライキによって注目を集めた。
 この闘争は公務員の既得権と職種別の地位の維持を要求するばかり でなく、それをこえて、「セキュ」を守ることを目指すものでもあっ た。「セキュ」とは、第二次大戦直後労働者階級によって獲得された 社会保障制度を指す俗語である。「セキュ」が象徴するのは私有でも 国営でもない市民社会の「第三セクター」、相互扶助的なセクターで あり、それこそ「アナーキズムの父」のー人ピエール=ジョゼフ・ブ ルードン(1809-1865)に欠かせぬ原理のひとつ、社会連帯の原理を具現 するものにほかならない。

 自由主義と株式投機と、あらゆるものの熱狂的な競争の思想が勝ち誇る時代にも、国民の大部分はあきらかにイデオロギー的に正反対の立場をとり、連帯と集団闘争の原理を理想として再確認していたのである。この二重の傾向をあらわす二つの主要なスローガンは次のようなものだ。「セキュはわれらのもの、その獲得のために闘った、いまそれを守るために闘おう」、「みんなー緒に、みんなー緒に、よし、よし!」。この闘争は公共部門にとどまらず、民間の労働者にも広く支持された。彼らのための「代理ストライキ」さえも話題にのぼったが、いくつかの場所で彼らはみずから闘いに身を投じた。全員が、民衆意識の、ふたたび見出された階級愛の大きな高まりのなかにあった。

 この運動を白鳥の歌ととらえた人々の議論は、資本の世界化とマーストリヒト条約のヨーロッパという枠組みのなかにおける、公務員職務の解体と公共・民間を問わないその身分の不安定化という予測を根拠としている。彼らにとっては引き延ばし作戦が問題なのだ。それに対し、この運動を「目覚め」ととらえる人々は、下部の立場や、「やつらには何もない、すべてはわれらがもの」、「経営者を解雇しよう」のようないくつかのスローガンに見られる急進性が、現実的な自覚、すなわち、とくに若者にとってのより良い生活条件の希求と同時に、あらゆる面での不安定化と失業の脅迫にたいする深い拒絶を意味すると評価している。自分の子供に、自分たちが無意味に闘いはしなかったし、無意味に働いてきたわけではなかったことを示したいと願う、退職間際の労働者は大勢いるのだ。

  組合官僚たちは、下から、街頭からの圧力のもと、多少とも攻撃的姿勢を示さざるを得なかった。彼らは、仲違いした兄弟である内輪の二つの流派、すなわちCGT( 共産党に率いられるへ労働総同盟)とFO(一九四七年に反共、反スターリニズムにもとづいて創設された<労働者の力派>)とのために、戦術的な妥協さえした。しかし両派は公共部門の労働者と民間の労働者とのあらゆる結びつきを阻止した。アナーキスト、ミハイル・バクーニン(1814-1876)が最初に発案し、一九一四年以前の革命主義的CGTによって再度取りあげられ、その後何度も大会や組合官僚のトップ自身によって言及されたゼネストの脅迫は、ついに実行には移されなかった。

 ストライキ参加者を輸送機関や公共サービスの利用者と対立させようとする、メディアをとおしての反対宣伝は失敗に終わり、運動は民衆のあいだで広く成功をおさめた。一九六八年五月、さらにはー九三六年六月のとき以上に大規模な膨大なデモが、フランスの大都市ばかりか、新事実だったが、公共サービスや公共輸送機関に大きく依存すると考えられていた大部分の中小都市でもくりひろげられたのだ。

 アナーキストはこの闘争中とりわけ活動的であって、自分たちのかかわる部門の大会、とくに鉄道員と郵便局員の大会に参加し、バリでは数千人、地方(リヨン、リール、トゥールーズ、ルーアン…)では数百人を集めて隊列をくみ、暫定的な代表の派遣や、最高機関であり決定権をもつ大会からの指令、直接行動と闘争の連合をひろく呼びかけた。黒旗、そして赤と黒の旗があちらこちらではためいていた。 アナーキストは、運動をマーストリヒト条約のたんなる拒絶としか捉えていない人々(共産主義者、シュヴェヌマン派、トロッキスト)の愚劣さや小細工に注意を喚起した。そうした解釈は、反マーストリヒト国民投票や反マーストリヒト政府型の政治屋のキャンペーンに直結するもので、<国民戦線>もマーストリヒトに反対しているだけに危険なものであった。アナーキストはトップの官僚主義的画策を告発したが、だからといって、いくらゼネストの原理に忠実だとはいえ、力が成熟していないのに、それにかかわる空疎な、とりわけ思い切ったスローガンをつくることは差し控えた。もしゼネストがうまく運ばず、占拠もおこなわれず、何の成果にもつながらないとしたら、戦前のファシズムにたいする経験が示したように、全面的な意気阻喪という頽廃的で否定的な恐るべき結果がもたらされるかもしれないからであった。

十一~十二月以後

 
 リヨンにおけるG7サミット開催反対のデモは、前年の秋に表明されたもっとも前進したイデオロギー上の立場の確認になるか否かが注目されていた。事実、それは政治的に重要な瞬間だった。しかしCGTは単独行動を選び、六月二五日に八万人のデモ行進を首尾よくやってのけた。なによりもまず組合非加入の諸組織によって呼びかけられたー九九六年六月二二日のデモは、それでもー万人を集めたが、うち優に三分の一はアナーキストと絶対自由主義者だった。

 ついでー九九六年夏のブルターニュ地方とランスへの教皇ヨハネ=パウロ二世の来訪は、古い反宗教的左翼さえもミッテランのもと政教分離の闘いを放棄したフランス社会で、たぶんもっともイデオロギー的で、またもっとも合意にみちた出会いの機会だった。それに反対を唱え、イスラム教を含むすべての宗教の退嬰的性格、たとえば妊娠中絶、避妊、道徳的秩序についてのヴァチカンの反動的立場を糾弾し、旧ユーゴスラヴィアやルワンダにおけるその政治的役割を告発できるのは、実際にはアナーキスト達しかいないのである。<アナーキスト連盟>が大いに活性化させた「教皇にお帰り頂こう」というキャンペーンは、メディアと伝統的な左翼のきびしい無視にもかかわらず、大衆のあいだである程度の成功をおさめた。教皇が訪れた場所から遠くない、カトリック色の強いブルターニュ地方の小都市ロリアンでのデモは、アナーキストの横断幕を先頭にする三千の人々を集めた。

鍵となるこれらの事件のほか、さまざまな闘争へのアナーキストのつよい関わりも見逃してはならない。女性の権利、避妊、中絶問題のための闘争──一九九五年十月の、フェミニズム統一デモではアナーキストの行進に数百人が集まった。アナーキストの古い伝統として「夜逃げ」を連想させるが、とりわけパリにおける、住宅問題と住居強制立ち退きの問題のための闘争。移民の擁護と不法入国者の正規受入れのための闘争。公教育においてばかりではなく、オレロン島における自主管理校「ボナベントゥラ」の、それ自体顕著にアナーキズム的な創設をともなう、絶対自由主義的な教育制度のための闘争。刑務所の閉鎖性に反対し、囚人の権利を守るためのOIP (<国際刑務所研究所>のネットワークと<ラジオ・リベルテール>の受刑者向け放送とによる活動。またさらに、国際語エスペラントの普及のための活動。

アナズム組織の状況

注目すべきなのは、フランスのメディア、とりわけ各テレビ 局が、パリのみならず地方のいたるところで見られるこれらの示威行動のすべてにおいて、アナーキストの行進がしだいに人数をふやしていることについて沈黙 を守ってきたことだ。その後有名になったテレビ番組「討議する」(サ・ス・デイスキユト)のテスト版はアナーキズムを取りあげたが、放映はされなかった。 『ル・モンド』や『リベラシオン』などのいくつかの日刊紙、また『ル・ヌーヴェル・.オプセルヴァトゥール』や『レヴェヌマン・デュ・ジュディ』などの週 刊誌がルポルタージュを掲載したが、それらはとても短く、細切れで、情報も不足、せいぜいよくて恩着せがましく、ふつうはセンセーショナルなものばかり追 うものだった。そんなわけで、現象の意味についての徹底的な分析はまったくおこなわれなかった。こうした状況のなかで、論評とニュースを扱うある外国の雑 誌がまとまったぺージを割いてくれたことは──私たちの知るかぎりはじめてのこころみだったが──称賛したい。

「アナーキスト」という語によって理解されるのは、個人、個人がつくるグループ、組織その他である。それはー方では、<アナーキスト連盟>に属するといっ た具合に、社会的立場や「基本原理」においてはっきりとそう定義されるものであり、他方では、アナーキズム運動の理論と歴史を援用するものなのだ。意味の 明瞭さと方法論的な利便性への配慮のほか、こうした定義を選ぶことには二つの利点がある。まず、たとえばテロリストの活動のように、政府やメディアはア ナーキストのものと見なしているが、アナーキズム運動の側からはそう受けとられていない活動について、政府やメディアの用いる卑俗な呼称やその他誤った解 釈を避けることができる。つぎに、ときおり、とりわけ闘争の現場においてアナーキズムに近づけられるものの、とくにアナーキズムに属すると主張するわけで はない別のグループや勢力をアナキズム運動から区別することができる。

このカテゴリーに属するのは次のようなものだ。急進的反ファシズム組織、たとえば<ノー・パサラン・ネットワーク>となった旧SCALP (<断固ル・ベン反対セクション>)など。ピレネー山脈ソンポールのトンネル建設反対委員会。サパタ主義者支援委員会。またダニエル・ゲランの系譜の「絶 対自由主義的マルクス主義」を標榜する諸グループ。たとえばー九八一年及びー九八八年にミッテランへの投票を呼びかけた、旧UTCL(<絶対自由主義共産 主義労働者連合>)からー九九〇年代はじめに分かれた<絶対自由主義的二者択一 アルテルナテイヴ・リべルテール>(フランス)。これは<アナーキスト連 盟>のメンバーが加わってブリュッセルで発行されている新聞『アルテルナティヴ・リベルテール』(ベルギー)と混同されてはならない。

 こうした「勢力」にはときおり「絶対自由主義的 リベルテール」という語がつけられる。この用語が「アナーキスト」より幅ひろく、怖がらせることもすく なく、それだけにときとしてより曖昧でもあるからである。こうした呼称は、これらグループの区別をかならずしも理解しているとはいえない外部によって用い られることもあれば、FAのような組織されたアナーキズム運動をしばしば批判するとはいえ、つねにそれに準拠している「勢力」内部によってさえも用いられ る。実際、このような勢力は、手に負えぬ極左派と無力化したエコロジスト運動とのあいだにおける自己確認の標識と、現場における闘争の実状以上の知名度を あたえてくれるかもしれない、運動の機関誌(紙)とを必要としているのだ。

 もちろん、アナーキストの語、思想、行動は、ア ナーキストやアナーキズム組織にのみ属するものではない。各人や各人の属する個々のグループのなかに、自由、解放への基本的熱望、すなわちアナーキストの 現実的実践によって翻訳されるような絶対自由主義的な酵素、が存在すると考えることは、すくなくとも、その弁証法的な思考を、経済的、社会的、政治的、文 化的生活のあらゆる領域における権威と自由との恒久的対立に分節化したブルードン以来、アナーキズム理論の第一歩である。たとえ語はあらわれなくとも、事 物は存在し得る。とはいえあきらかに、そうした酵素は、それのみが完成しうる社会計画について、依然として不明瞭なヴィジョンしか結局はもっていない。そ のようなさまざまな絶対自由主義的酵素の意識化と連合化という作業にあたって、アナーキストとアナーキズム組織がなすべきことは、社会運動のなかで「行動 的少数派」の立場に立ち、イタリアのアナーキスト、エンリッコ・マラテスタ(1853-1932)が記したように、そこで酵母の役割を果たすことである。 フランスのアナーキストがたとえ異なった解釈をしているにせよ絶えず準拠するー九三六年のスペイン革命の例は、アナーキズムの社会計画の原寸大での最大 規模の実験が──集産化、直接管理、反ファシズム・反マルクス主義の革命闘争とともに── 絶対自由主義的理想の孵化と増殖によって数十年来準備されてきていたからこそはじめて可能になったのだということを示しているのである。一九三六年七月、 フランコのクーデターと反フランコの蜂起の日、スペインの労働者が自分たちの運命をしっかりとみずからのものにしようと立ち上がるのに、CNT(労働国民 連合)とFAI(イベリァ・アナーキスト連盟)が指令を発する必要さえなかったのだ。
このように歴史を簡単に想い起こすことは、またフランスにおける現在の状況を理解する助けとなる。記憶の永続は、すべての方面で、右翼からも左翼から も、社会民主主義、マルクス主義、スターリニズム、トロツキズム、毛沢東主義などいたるところから抑圧を受けてきたアナーキストにとってひじょうに強力な ものなのである。新しいアナーキスト活動家の参画は大きくこの記憶にもとづくのであって、フランスCNTが現に若者のあいだで、とりわけパリ地区で博した 成功は、部分的には、プロレタリアートの強力なアイデンティティとスペインの偉大なサガ(伝説)のつくりだす、いまなお現実的なこの神話への賛同によって 説明されるだろう。

 それに、このスペインのサガの永続はフランスに特有のものでもあって、それは、一九三九年以来、あらゆる隷従までふくむスペイン共和国の難民がフランス へ定住したことによって広く助長されているのだ。時がたちフランコ主義の終焉とともに、フランスに亡命したスペイン系アナーキズム運動、あるいは「亡命 派」は、その力を失いはした。しかしほとんどあらゆるところで、すべての大都市においてはかならず、スペイン系アナーキストのグループはなお存在しつづ け、いまなお存在している。そして今日のアナーキストの行進においても、だれそれの祖父が反フランコのスペイン人亡命者だったというのはよく耳にするとこ ろである。今日にいたるまで、とりわけ労働問題に関して、スペイン系亡命アナーキストの存在は、フランスにおけるアナーキズム運動の構造に重要な影響をひ としくおよぼしている。

 二つの組織が今日フランスにおけるアナーキズム運動の根幹をなしている。FAーf(<フランス語圏アナーキスト連盟>、一般にFAと略記)と CNT-f(<フランス労働国民連合>)である。多くの同志が二重に加盟しているこれらの二つの組織のあいだの関係は、協調と潜在的な対抗とのあい だを揺れ動いている。この逆説的な状況は、フランスにおける労働界の歴史的遺産と現下の変動とによって二重に説明されるだろう。

<アナーキスト連盟>、特殊な組織


<フランス語圏アナーキスト連盟>、これが「規約上の」名称であり、戦後創設された。最初にきたのが、FCL(<絶対自由主義共産主義連盟>)の分裂に示 される、一九五〇年代の内部の苦難の時期である。FCLは当初若返りの意志、アルジェリア独立の支持、結局は当選第一主義と内部破裂におわったある種の労 働組合至上主義によって鼓舞されていた。つぎが六八年五月の爆発。このとき連盟は<五月二十二日運動>の絶対自由主義的新左翼によってきびしい批判をうけ た。絶対自由主義的新左翼の崩壊する一九七〇年代の低迷期。そして一九八〇年代の漸進的勢力拡張期。その前触れとなる転機のひとつが、<基本原理>のなか で階級闘争を確認した一九七九年のフレーヌ=アントニーの大会だった。

 <アナーキスト連盟>は、伝統的に知られる三つの流派、すなわち個人主義、アナルコ・サンディカリズム、絶対自由主義的共産主義のあいだの統合的な組織 であろうとした。しかしその場合、戦前のもっとも知られたアナーキスト活動家のー人セバスチャン・フォーレ(1858-1942)の統合とともに、サンク ト・ベテルスブルグの第一回ソヴェト大会に出席し、ロシア革命でネストール・マフノ(1889-1934)のもとで闘い、のちにフランスに亡命したロシア のアナーキスト、ヴォーリン(1882-1946)の、より構造化されより「階級主義」的な統合も問題となるだろう。ところが実際には、若い世代の活動家 たちは、自分たちにはあまりにも抽象的か時代おくれに見える、流派のこうした区分にはあまり敏感ではなく、おおくのものは自分をたんに「アナーキスト」だ と考えている。

一九九六年五月にトゥールーズで開催された前回の大会における討議内容から判断すれば、<アナーキスト連盟>はフランスの百近い県のほとんどすべてに存在 している。勢力の定着が強固なのは、パリ地区、ローヌ=アルプ地区(リヨン、サン=テティェンヌ、グルノーブル…)、南西部(トウールーズ、ボルドー、ピ レネー、ベルピニャン…、西部(ブルターニュ、ロァール地方、ポワトゥー)、北部(リールとベルギー)、そして地中海周辺(モンプリエ、ニーム、マルセー ユ、トゥーロン、ニース…)である。

 <アナーキスト連盟>はいくつもの武器に恵まれている。連盟の書店、パリの<フブリコ>。発行部数約八千(特別なときはその倍)、定期購読者千の、八 ページからなる週刊紙『ル・モンド・リベルテール』。五〇人が制作に携わり、パリからFMで放送され(89.4Mhz)、公式調査の数字によればー日平均 三万五千人が聴いているという連盟のラジオ放送<ラジオ・リベルテール>。地方のグループの大部分は建物(リヨン、リール、ルーアン、ナント、レンヌ、ボ ルドー、トゥールーズ、モンプリエ、サン=テティェンヌ、ディジョン・・・)と情報紙ぎきに加えてブザンソン、ブレスト、メルルバック…)を持ち、後者は しばしば、とりわけローヌ=アルプ地区では、ネットワークとして組織されている(<経済的社会的平等>、<黒い思想>、<労働者ネットワーク>…)。 <アナーキスト連盟>への加盟は、グループで、紹介で、またまったくの個人でなされる。加入の契約は、組織が大会で決めた規約「基本原理」の遵守にある。 年にー度の大会が最高権限を持つ場である。それは全会一致によって運営されるが、難航の場合、「友好的棄権」が奨励される。大会はさまざまな種類の事務局 (内外もしくは国際的諸関係、会計、出版、記録文書保管など)、機関紙編集委員会、専門職の専従職員(書店、新聞、ラジオの経営)を任命する。最後に大会 は方針の動議やキャンペーンを決定する。

 <アナーキスト連盟>のメンバーは、たとえ改革派であっても、多様な労働組合に加入することができる。たとえばCGT、CFDT(フランス民主主 義労働同盟、一九六四年以来公式に非宗教化され、六八年の五月革命により活性化され、のち社会党の傘下に入った)、FO、FEN(<国民教育連盟>)、あ るいは以下のような新しい組合に。SUD(<団結、統 一、民主 >、CFDTからの急進派の除名者からなり、とりわけ郵便、鉄道におおい)、CRC(<連 携、結 集、建設 >、前者とおなじだが保健関係におおい)、FSU(<統一組合連盟>、FENからの最近の急進約分派)そしてCNT…。彼らは自分の企業におけるその組合 の戦闘性に応じて、さらにその未来への展望に応じて、自分の加入する組合を選ぶ。場所によっては、改革派の組合はアナルコ・サンディカリズム的行動にたい して多少とも大きな活動の余地を残しているといえるだろう。

 FAのメンバーはだからフランスCNTに自動的に加入するわけではない。戦術的な理由のほか、このことにはまた歴史的で戦略上のいくつかの理由がある。 フランスはながいあいだ、一九四五年以前にはひどく少数派だったキリスト教系組合をのぞけば、組合の統ー組織のある稀な国のひとつだった。その組織とは昔 のCGTのことであり、それはそもそものはじめにアナーキストが、フェルナン・ベルティエ1867-1901、エミール・プージェ1860-1931、 ジョルジュ・イヴトあるいはヴィクトール・グリフュエル1874-1923といった人物とともに、ひろくその創立を助けたものだった。

 社会民主主義の偏向とボルシェビキの乗っとりにもかかわら ず、ー九四五年以前の統一気運はフランス労働者運動においてはつねに充分強いものだったので、たとえばー九二二年のCGTU(<統一労働総同盟>)の分 裂、さらにそのCGTUの一九二八年におけるピエール・ベナールらアナーキスト(一万人の賛同者がいた)によるCGT-SR(<革命主義的サンディカリズ ム労働総同盟>)への再分裂ののち、一九三六年のCGT再統一へとつながった。ブルジョアジーに対抗してはっきりと統H一して組織されなければならぬとい う自主的労働者階級の原理は、ブルードンからの古い考えであって、あまりにもしばしば忘れられているのだが、そのフランスの労働者への影響は、すくなくと もカール・マルクスのそれに匹敵するものなのである

 一九四七年、当時五百八十万の参加者を数えたCGTの新たな分裂によって、事態は複雑化する。反スターリン主義、社会民主主義、さらにはトロツキスト、 アナーキスト、その他の分派がFOを結成したのである。この時期、<アナーキスト連盟>のメンバーの大部分はFOに加わることを選んだ。それが、その間一 九四六年に、スペインのアナルコ・サンディカリズムの亡命者の協力を得て、ピエール・ベナールのCGT-SRの後継者のー部によって創設されていたフラン スCNTの発展に、手痛い打撃をもたらした。

 FOに好意的だったこの選択は、労働者階級により近いところで、スターリン主義者には反対の大衆組織にとどまりたいという願望に動かされていた。当時、 CFTC(<フランス・キリスト教労働者.同盟>)は、まだ非宗教化されたCFDTとなってはおらず、さして重きをなしていなかった。一九九六年に照らし て見れば、この選択が最終的には間違っていたのではないかと考えるアナーキストの数はしだいに増えている。しかし歴史をあとから考えなおすのはつねに容易 である。FOの化学や設備などのいくつかの部門、あるいはナントなどのいくつかの地区は、いまだにかなりアナルコ・サンディカリストの影響を受けている。 ともに宗教色のない社会党系の、アンドレ・ベルジュロンとその現在の後任者マルク・ブロンデルとのFO書記長への選出は、より組合協調主義的で政治的に中 立とはいえぬと判断されたどのような候補者にも反対する、アナルコ・サンディカリストの暗黙の戦術的な合意に負うところが大きい。

 それでもやはり、そのー部がスペインからの亡命者であるセネティスト(=CNTのメンバー)は、ときには裏切りと見なされるこの選択について<アナーキ スト連盟>をひどく恨んできた。FAでは世代がほとんど全面的に入れ替わり、一九四七年のメンバーがほとんど残っていないとはいえ、一部のものはなおそう なのである。この過去は部分的には、現在のある種の緊張関係を説明してくれるだろう。

 けれどもまた戦略をめぐってもいくつかの食い違いはあり、CNTの選択は連盟のおおくのアナーキストによって両義的だと判断されている。CNTは実際の ところ、みずからを政治組織や結社とは考えず、組合だとしている。だからCNTはしばしば他の改良主義的組合と行進をすることを選び、ときには、リヨンで のように、いつでもどこででもというわけではないが(パリにおける反対例もある)、アナーキストの隊列に加わることを拒否する。CNTはアナーキストの レッテルをあまり好まないが、それは戦術的な配慮──イデオロギーのこちら側によりおおくの人々を結集すること──によるばかりではなく、戦略的な定義に もよっている。指導原理のなかで階級闘争、反国家主義、反議会主義、反軍国主義に言及するCNTは、たとえ「絶対自由主義的倫理」を援用し、絶対自由主義 的共産主義を窮極目的だと断言しようと、その規約のなかではっきりとアナーキズムに準拠してはいないのだ。こうした幅広い取り組みは、「純粋な」革命主義 的サンディカリスト、絶対自由主義的マルクス主義者ばかりか、革命主義的マルクス主義者やエコロジストなど、アナーキズムを特定して援用するわけではない 個人やグループの加入を可能にしている。「純粋な」革命主義的サンディカリストは、彼らが組合を手段であり目的でもあると捉え、革命的社会再編成のなかで はコミューンを除外し、アナーキストと特定きれる組織にどのような社会的・労働者的有用性をも否定するかぎりにおいて、厳密な意味でのアナルコ・サンディ カリストとは区別される。アナルコ・サンディカリストの方は、社会計画としても現在の組織としてさえもコミューンを忘れることはなく、したがって彼らは、 組合協調主義に偏向しかねぬ産業連盟を犠牲にして、さまざまな同業組合を集める地域連合に重要性を認めるのだ。彼らは当然のように、この場合<アナーキス ト連盟>のような特定の組織を敵視するわけではない。もっとも彼らのあいだでは、彼らがFAに認める位置や機能は多岐にわたっており、それは純粋にイデオ ロギー的・理論的役割から防衛と闘争の組織としての役割まで、揺れ動いているのである。

CNTは、長い低迷のあと、現在飛躍している。CNTが根づいているのは、パリの地下鉄の清掃部門、FNACオーディォ製品、スポーツ用品などを扱う大型 スーパーマーケットチェーン)、保健、郵便である。それは、『ル・コンバット・サンディカリスト』というタイトルをCGT・SRの機関誌から奪回した月刊 機関紙を持っている。その最高議決機関は大会であり、そこで各組合員が一票を持つ。官僚主義化を避けるため専従職員という考え方は否定されている。

軋轢がどのようなものであれ、二つの組織、FAとフランスCNTは、組織上厳密に別物である。イデオロギー上でも、実際上でも、この二 つの組織のあいだに、前衛と大衆組織とのあいだのレーニンのいう伝動ベルトという関係を想像することは絶対にできない。

アナキズムの課題


 とはいえ、分析と実践のこのような相違が活動家のミクロ社会の内部に空疎な論争しかもたらしていないと考えてはならないだろう。たしかにそうした側面がないわけではない。たしかに、アナーキズムとアナルコ・サンディカリズムはなおほとんど有効とはいえぬ力を表象しているのにすぎない。しかし現になされている選択は、フランス、さらに全世界の今後の進展にたいして決定的なものなのである。

 大部分の工業国と同様、フランスにおいても、社会は深刻な危機に見舞われている。三〇〇万人以上、すなわちー九九六年の労働人口のー三%という大規模な失業。期限つき雇用と転職の増加にともなう強度の不安定化。増大する社会的不平等(INSEE[国立統計経済研究所]によれば、月額八五〇〇フラン[約十八万円]という平均収人と同額かそれ以下の場合のものが二二九〇万人、すなわちフランス人口の半分近い)。多数の貧困層、ホームレス、それに住宅事情のきわめて悪い二〇〇万人。外国人排斥と極右のもたらす人種差別の横行による極度の緊張。ますます暴力的になる社会関係。とりわけ若年層に見られる、自殺の大幅な増加。絶対自由主義的精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒ(1897-1957)の表現を借りれば、「感情のベスト」をサッカーのスタジアムやロック・コンサートで昂進させている、ますます弛緩していく社会関係。そうした傾向は、個人あるいは家庭を完全に核化するテレビのチャンネルの発達によって強化される一方である。

 しかし、全体として、労働者階級──生産手段の所有者ではないとはいえ物質的生産(工業、農業)ばかりか再生産(サービス、輸送、教育、文化…)をも保証する階級──は、フランスでも世界でも後退してはいない。数字上も、社会的にも。そのかわり、国籍、価値、身分の相違によって、より分散させられ、より細分化されている。所得競争にかりたてられた彼らは、議会主義と当選第一主義によって不具にされ、組合家族主義によって飼い慣らされ、官僚主義によって衰弱させられ、組合協調主義とナショナリズムによって分割されてしまった。世界じゅういたるところでこうした分裂を操っている、自由主義的だとはいえ国家中心の資本主義により支配された社会において、マルクス主義の計画と組織の取り返しのつかぬ破産のあと、課題はなみはずれたものとなっているのだ。

 アナーキストにとって労働者階級に訴えるというのは、仕事を持つ人々ばかりでなく持たない人々や失おうとしている人々にも訴えることである。それは、もはやー連の(ネットワークによる)遠隔労働や下請けや社屋の分散によりしだいに解体していく企業ばかりではなく、それとはべつの場所のまわりに、人々を組織し統一することができることを示すことなのだ。それは社会的絆と連帯とを再構成するのが可能だということである。そうした絆、連帯とは、労働界におけるアナーキズムの疲れを知らぬ活動家、フェルナン・ベルティエが、旧CGTのうちに設置されるまえの十九世紀末、労働者の図書館、労働者のサークル、労働者の超経済的活動を想像し創設したような、コミューンや労働者取引所である。
 課題はまた、必要なさまざまな連帯を結びあわせ、ブルジョアジーの組織する競争関係を打破するため、国際的なレベルにもある。CNTは、一九二三年にベルリンで設立され、第一インターナショナルの反権威主義的流れを汲むAIT、<国際労働者連合>への献身を保証している。FAはといえば、一九九七年秋にリヨンにおいてIFA(<アナーキスト連盟インターナショナル>)の次期太会を組織する予定だ。隣人たるFAI (<イタリア・アナーキスト連盟>)とともに、たとえばー九九五年秋のフランスの社会運動を報告するためイタリアで共同して組織したー九九六年二月の講演旅行があきらかにしているように、基本的共同作業を展開している。

 しかしアナーキスト自身、社会において充分に何かを代表し、みずからのユートピア計画を信頼されうるものであるとともに存続しうるものとしているであろうか。<アナーキスト連盟>を例にとれば、その活動家が余計者や甘い夢想家からほど遠いことはだれでも納得するだろう。女性も男性もほぼ同数である。すべての年齢層が代表されているが、それよりいささか重要なものとして、学生、若いプロレタリア、あるいはすでに失業中の二十歳前後の男女と、団体や組合での活動経験のある三十代と四十代の男性という二つの区分がある。金属労働者、鉄道員、植字工、教員、看護士その他が<連盟>では隣りあわせている。おおくの場合、連盟のアナーキスト活動家が、その分野、とりわけ技術系の分野情報処理、植字、印刷、数学、社会科学…)でかなり突出した専門家であることにさえ気づかされる。社会学的な内部調査ともいえるいくつものアンケート、とりわけ一九九四年に『ル・モンド・リベルテール』紙の実施した読者調査は、そういう場合に見られる慎重さにもかかわらず、アナーキストやその同調者が団体や組合の運動、同調者にとってはとくにCGT、また社会の様々な部門に深く根をおろしていることを立証している。

もうひとつの未来の課題


 CNTと同様ヘアナーキスト連盟>の内部でも、諸課題の重要性が強く感じられながらも、進むべき方向についてときおりためらっていることはあきらかである。それが最初に明確化したと思われるのは、一九九六年六月のリヨンでのG7反対デモのときであって、そのときFAとCNTは、うわべだけだが自殺的な暴力行為に飢え、警察が浸透しやすく、ともかくあらゆるところで、それ以前よりもさらに権威主義的国家を組織する力を証明してくれた民族解放運動を支持する、ドイツ式「自主派」アウトノミアタイプの、ムーヴマンティストか急進派の諸党派と手を結ぶことを拒否したのだった。

 この側面についてもうすこしつけ加えると、最大の人数を最大の公分母のうえに集めるという、短期間なら時には有効だが、矛盾と対立を生みださずにはおかぬ「共同戦線」的戦術は、しだいに行き詰まりが感じられるのである。それは、社会党と共産党の左翼も極左派も、真摯な反ファシストとアナーキストの背に乗ってファシズムの危険を人工的に増大させることはしないまでも、一方は政治の純潔を回復するため、他方は党勢を拡大するため、反ファシズムの大共同戦線しか夢見ていないだけになおさらなのだ。

 CNTの内部において、職業的選挙に参加するかそれを拒否するかについて激しい議論が巻き起こり、多少の保守を含む「賛成」派(いわゆるヴィニョールCNT)と、南西部におけるより多数の「反対」派(CNT-AIT)とのあいだの組織的な分裂を生みだした。

 このような状況は客観的に見てフランスにおけるアナーキズムの発展には好ましいものである。一九八一年のミッテランの最初の大統領選挙のときの希望が大きく、他方社会党の現状がとりわけ深刻なものとなっているだけに、ミッテラン時代の社会主義への幻滅は大きい。失業の増加、ピエール・ベレゴヴォア首相の断行した失業手当の削減以来の「新しい貧困層」の出現、安全保障重視の政策、汚染血液事件に見られるような、廉直で知られる幹部をまきこむさまざまなスキャンダル、偽造請求書、そして傲慢さを競いあう「左派=キャビア」と「右派=カシミア」。社会党との協力をなかなか忘れさせられぬ共産党は、なお急進的な下部の力で修復をはかる。それに代わるかと思われていたエコロジストについていえば、よくいって資本主義の開明的管理方式、悪くいえば、政界に乗りだす新しい絶好の機会と見なされている。

 アナーキズム運動のなかで、あるものは、ソヴィエト連邦の再編成と大学や組合などさまざまな場所でのマルクス主義の退潮とが自分たちに自然に道を開いてくれるだろうと考えていた。最近のー連の出来事は裂け目が実際に口をあけ、しかもそれでもまだ充分でないことを示している。アナーキストは、いままでになく信頼をよせられ、そこでー部のものがときおり自足するのを好み、右も左もあらゆる敵がそのままでいることを望んでいるようなフォークロアや余白から抜け出し、人類がついに鎖から解放される機会を得たいと望むなら、二十一世紀の夜明けにユートピア計画を磨きあげなければならない。

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